きょうのことば - [2003年11月]
「他力というは、如来の本願力なり」
親鸞『教行信証』( 『真宗聖典』 P.193)
これは、親鸞 (1173-1262) の主著『教行信証』「行巻」にある言葉です。親鸞の言葉の中でも、最も大切な意味を持つものの一つと言えるでしょう。「他力の信心」や「他力をたのむ」などは、親鸞思想の根本を表現したものであります。
「他力」を辞書(『広辞苑』)で引くと、「他人の助力。仏・菩薩の加護の力を指す。浄土門において阿弥陀仏の本願の力をいう。」とあります。「阿弥陀仏の本願の力」とありますから、冒頭の親鸞の言葉にしたがった解説であるとも言えます。しかし、一般には「他人の助力」として使われることが多いようです。もう少し辞書を読みすすめますと「転じて、もっぱら他人の力をあてにすること」ともあります。「他力本願ではダメだ!」という言葉をよく耳にしますが、これは自分で努力することをあきらめて安易に他人に頼ろうとする人を誡めるときに使われます。
しかし、親鸞が「他力をたのむ」と言うのは、そうではありません。「他力」とは、例外なく阿弥陀仏の本願力を意味します。しかも「たのむ」とは、「あてにする」という意味の「頼む」ではなく、「憑む」という漢字を書きます。これは「よりどころとする」という意味です。つまり「他力をたのむ」とは、「阿弥陀仏の本願をよりどころとする」という意味なのです。
私たちも、さまざまな願いを持ち、その願いにしたがって生きています。一番身近には、私の願い、少し広げれば社会の願い、もう少しスケールを広げれば国家の願いや人類の願いなど、さまざまです。それぞれの人がそれぞれの立場で、それぞれの願いを大切にしながら生きています。しかし、これらは何処まで広げても、何らかの立場を中心にした願いです。自分や社会、国家や人間、どのように広がっていったとしても、それは一つの立場を中心とした願いなのです。だから、立場と立場がぶつかると、その間に衝突が生まれます。国家間で願いと願いがぶつかるとき、愚かで無惨な戦争となるのです。
親鸞が他力をよりどころとして生きると言うのは、これら中心を持った願いにしたがって生きるのではありません。自分からは一番遠いもの、むしろまったく反対の側からの、まさに「自」から言えば絶対的に「他」であるものからの願いを聞きとめて生きることを意味します。その私の願いから最も遠いものが、阿弥陀仏の本願と言われるのです。
私の社会、私の国、私たち人間という一切の立場を離れた最も遠い存在から、私たちはいったい何が願われているのでしょうか。「私の立場」を優先させることを捨てて、このことに耳を傾けながら生きようとする態度を、自力を離れて他力をたのむと言うのです。「私」を捨て、逆に私は阿弥陀仏から何を願われているかを聞きとめて生きることが、争いの絶えない今の世界には大切なのではないでしょうか。