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きょうのことば

きょうのことば - [2003年10月]

あさなあさな、仏とともにおき、ゆうなゆうな、仏をいだきてふす。

「あさなあさな、仏とともにおき、ゆうなゆうな、仏をいだきてふす。」
『安心(あんじん)決定(けつじょう)鈔(しょう)』(『真宗聖典』P.953)

 このことばは、『安心決定鈔』の中に引かれる中国の傅大士(ふだいし)[497-569]のことばです。傅大士は、大乗の教えに造詣が深くまた仏教以外の書物にも詳しい、尊い人であったといいます。朝、起きるときには仏とともに起き、夕べ、眠るときには仏をいだいて伏すと語ったというのです。
 彼は、禅宗の祖とされる菩提達磨(ぼだいだるま)と出会い、その指示にしたがって山中に棲んだといわれます。昼間は農作業を行ない、夜になると仏道修行に励んだといいますから、在俗の生活をしながら仏教に深く帰依していました。
 寺院の経蔵を訪れると、正面に傅大士の像が安置されているのを見かけることがあります。傅大士は、儒教・仏教・道教のいずれにも通じていたのですが、とくに仏教に詳しい在家の人でした。彼は、16歳の時、劉妙光(りゅうみゅうこう)と結婚し、普建(ふけん)・普成(ふせい)という子が生まれました。経蔵には傅大士像の両脇に、この二子の像を並べることもあるといいます。
 なぜ経蔵に彼の像を置くことが好まれたのでしょうか。それは、傅大士が「転輪の蔵」の発案者であることと関係しているようです。彼は、たとえ文字の読めない人であっても、だれもが仏教に出会うことのできる方法はないのだろうかと考えました。転輪の蔵とは、一本の柱に八面の棚を置いて経典を収納するという回転式の本棚でした。棚から経典を取り出して読むことができなくても、腕をのばして転輪の蔵を横に一回転させれば、経典を読んだことと同じ功徳が得られるというのです。傅大士は、そのようなかたちで仏教を衆生にとってより身近かなものとしたのです。
 「仏とともにおき」「仏をいだきてふす」という生き方は、衆生が仏と一体となって生きることを意味します。悩み苦しみの中にあってそこから抜け出せないでいる衆生が、目覚めた人、仏と一体となるとは、どのような関係なのでしょうか。
 衆生は、苦悩を苦悩と自覚できないで迷いの世界に生きているが、実は、その衆生をいつもあわれみ念じている「仏」がいると、『安心決定鈔』では説くのです。だから、仏に念じられている衆生に、「あさなあさな、仏とともにおき、ゆうなゆうな、仏をいだきてふす」という生き方がすすめられているのです。

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