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きょうのことば

きょうのことば - [2003年02月]

怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。

「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。」
『ダンマパダ』(『真理のことば・感興のことば』岩波文庫P.10)

 この言葉は、釈尊の教説を伝える古い経典である、『ダンマパダ』(法句経)に出ている言葉です。現代の時代状況を思うとき、この釈尊の言葉に耳をかたむけることは、非常に大切なことだと思います。
 「怨み」という言葉は、どのような意味を持つ言葉なのでしょうか。辞典を見ますと、「人をウラミ、仇(あだ)とすること」と出ています。ある人は、「人間関係を敵と味方に分けるものである」と語っています。敵とは、どうしても赦すことの出来ない存在のことでしょう。そのものが存在する限り、自分の生きることが安らかなものになりません。常に自分の存在をおびやかすもののことです。だから、何としてでも、そのものを取り除くことによって、自分の生きることを安らかなものにしたいと考えます。
 そのことは国家レベルにおいても同じことです。そのため近代国家は、大きな軍事力を持つことによって、自国の安全を守ろうとしてきました。そして、敵対するものを滅ぼすことによって、自国の安全を守ることができるとして、かずかずの戦争を繰り返しやってきたのです。
 しかし、大きな軍事力を持つことによって、そして、また敵対するものを滅ぼすことによって、ほんとうに自国の安全は守られてきたでしょうか。決して、そういうことはありませんでした。敵対するものを生み出すものは、実は、自国中心の国家エゴというものだからです。それは、私たちの自我と同じように、自国の都合によって敵と味方を同時に作り出すのです。だから、私たちが自国中心の国家エゴというものから解放されることなしに、自国の安全を守ることはできないのです。
 だからこそ、「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。」と教えられるのです。
 “すべての生きものは、いのちの繋がりを生きる衆生である”という釈尊の教えに教えられて、敵対するものも自分たちと変わることのない、まったく同じ存在であることに気づくことの大切さを思います。

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