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きょうのことば

きょうのことば - [2003年01月]

顚倒の善果 、よく梵行を壊す。

「顚倒の善果 、よく梵行を壊す。」
親鸞『教行信証』「行巻」所引(真宗聖典P168)

 これは、『教行信証』に引用されている中国の曇鸞(どんらん)の言葉です。

 自分で「善」と考える結果が得られたとしても、それは倒したものであり、梵行〈清浄なる行為〉を破壊してしまうことになるのです。
 という意味です。゙顚倒″とは、ひっくり返った状態のことであり、本来そうあるべきものが逆さになることを意味します。曇鸞はこれによって、自己中心的な善果が、いかに大切なものを見失うかを教えようとするのです。
 私たち人間は、いつも何が善で何が悪かの判断を持ちながら生きています。そして「善」と思われるものを求め「悪」はなるべく避けようとします。ところが、このような生き方は時に他人との衝突を生んでしまいます。善悪について、あるいはどちらが正しくてどちらが間違っているのかということで、他と争ってしまうことは日常茶飯事です。
 「本当は自分が悪いのだ」と感じながら、引くに引けなくて争ってしまうこともあります。しかし多くの場合「正しいのは自分だ」と確信し、確信しているからこそ決して譲れないという気構えで他とぶつかってしまいます。親子や兄弟、友人同志でのけんかから国家間の争いまで、自分の善と他人の善は衝突してしまうのです。
 互いに善であると確信しながら、なぜ他と衝突してしまうのでしょうか。曇鸞はそれを「自分」を中心とした善が、倒したものであるからだと言います。自分にとっては善であっても、他にとってはそれが悪となることを指摘するのです。一人が多くの財を築く影には、他の財を奪い集めるという事実が潜んでいます。人間に快適な生活環境が整ってきた歴史は、他の生命の生活環境を無視してきた歴史でもあります。このような自己中心的な善を、顚倒の善果と言うのです。
 曇鸞は、このような倒した善果が、梵行、つまり清浄なる行為を破壊してしまうのだと言います。私たちにとって、本当に清浄なる行為とは何でしょうか。それは、自己中心的な善を離れ、互いを敬い合える道を求めることではないでしょうか。このことは決して容易なことではありません。しかし、それこそが真の意味での清浄な行為です。
 自国の正義を他国に押しつけ、世界に押しつけようとするのも、また顚倒の善果であると言わざるを得ません。自分の善や正義を主張し続けることは、互いに敬い合いながら生きるという清浄なる道を破壊することにしかなりません。そのことをよく知って、梵行を求めていくことが、今の私たちには大切なのだと言えるでしょう。

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