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きょうのことば

きょうのことば - [2002年11月]

善悪の字しりがおはおおそらごとのかたちなり

「善悪の字しりがおはおおそらごとのかたちなり」
親鸞『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』

 この親鸞の言葉は、「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり」と語るところにある言葉です。親鸞は私たちが、あたかも何が善いことで、何が悪いことであるのかを知っているような顔をして生きていることは、大嘘つきのすがたであると言うのです。
 去年たまたま目にした二つの新聞記事のことが思い出されます。一つは、ある音楽グループのさよならコンサートに、福岡から東京にやってきていた二人の女子高生が、「死ぬ理由もないけど生きている理由もない」「しいて言えば疲れた」などと書かれたメモを残してマンションから飛び降り自殺をしたことです。もう一つは、埼玉で起こったことですが、二人の女子中学生が、「もう疲れちゃった、生きている事に」というメモを残して自殺するということがありました。
 なんともやりきれない気持ちがします。生きることに疲れてしまい、生きていけなくなるとはどういうことなのでしょうか。
 思えば、近代という時代は、デカルトの「良識あるいは理性とよばれ、真実と虚偽とを見わけて正しく判断する力が、人人すべて生まれながら平等である」という言葉が象徴する人間理性を信頼することから出発しました。だから、私たち人間は、自分たちの力で幸せな生活を実現できると思い、そのために何が善いことであり、何が悪いことであるかを考えて生きてきたのです。その結果、確かに、私たちは豊かで便利で快適な生活を手に入れることができるようになりました。
 しかし、私たちが何よりも確かなものとして信頼する人間理性は、結局のところ自分の都合というものを離れることの出来ないものなのです。だから、自分にとって都合が悪いということになると、そのものを絶対に受け入れることが出来ません。このように受け入れることの出来ないものを持つ生活が、生きることに疲れさせるのです。
 「生きることに疲れました」という言葉を残して自ら死んでいった子どもたちは、近代以降自分たちの力で幸せな生活を実現できると思ってきた、私たちの在り方そのものを、身をもって問うているのです。
 そのことを、親鸞は、念仏の教えに教えられて、「善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり」と語るのです。

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