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きょうのことば

きょうのことば - [2002年09月]

それ自障は愛にしくなし。自蔽は疑にしくなし。

「それ自障は愛にしくなし。自蔽は疑にしくなし。」
親鸞『教行信証』

 この言葉は、中国で編集された『楽邦文類(らくほうぶんるい)』という書物にあるもので、親鸞はこれを『教行信証』に引用しています。
 「自分らしく生きることをさまたげるのは、愛にきわまるのである。自分の生き方をおおいかくすのは、疑いにおよぶものはない。」
 「自障」とは、自分らしく生きることを自分自身の手でさまたげることであり、「自蔽」とは、自分らしく生きることを自分自身の手でさえぎりおおいかくすことを意味します。私たちが自分に対して何か不安を感じたり、何をしても充実感が持てないのは、自分自身の“愛”と“疑い”にその究極の原因があると、この言葉は言います。
 私たちは、自分自身を愛し他者を愛していきたいと、心のどこかで願いながら生きています。私たちにとって何かを愛そうとする思いは、とても大切なものです。しかし実際には、それとはうらはらに、自分であれ他人であれ、心の底から愛することのできない現実にしばしばぶつかります。その時、私たちは疑いや不信をいだき、不安や孤独を感じずにはいられません。仏教では、そのような私たちの“愛”に、執著(しゅうじゃく)という重大な問題を確かめてきました。
 執著とは、「とらわれ」を意味します。私たちが自分も含めたさまざまなものを、どれほど深く愛そうとしても、そこには自分にとって都合のよいものだけを選んで、それだけしか愛そうとしない深いとらわれがあります。つまり、私たちは、実は〈自分にとって都合のよいもの〉だけを愛していくのであり、〈自分にとって都合の悪いもの〉は決して愛せないということが、そこに教えられているのです。私たちの“愛”に潜むこの「とらわれ」が解決されない限り、私たちがどれほど懸命に何かを愛したとしても、それはいつでも私たちに不安や孤独を生み出していきます。
 親鸞は、人間はなぜ不安と孤独の中に生きていくのかということを課題として生きた人です。その課題を仏教に問いかけるなかに、「とらわれ」から一歩も離れることのない自らの“愛”を教えられました。そして厳しくそれを見据え続けていったのです。自分らしく生きるということは、自分に都合のよいものだけにとらわれて生きている自己の姿を自覚することから開かれるのです。

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