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きょうのことば

きょうのことば - [2002年08月]

六道輪廻の間にはともなう人もなかりけり

「六道輪廻の間にはともなう人もなかりけり」
一遍(いっぺん)

 鎌倉時代の浄土教を代表する僧侶のなかに、時宗(じしゅう)の開祖となった一遍(1239-1289)がいます。彼は出家後、一切の執着を捨てるために、特定の寺院には住まず、遊行聖(ゆぎょうひじり)として念仏を称えながら日本全国を歩き回りました。死に臨(のぞ)んだとき「一代聖教(しょうぎょう)みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と述べ、自分の一生は南無阿弥陀仏に帰結するとして、所持していた書物をすべて焼き捨てました。
 上に挙げた言葉は一遍が書いたとされる「百利口語(ひゃくりくご)」という和讃の冒頭に見られるものです。

六道輪廻の間には ともなう人もなかりけり
独(ひと)りうまれて独り死す 生死の道こそかなしけれ
 一遍は、すべての生きとし生けるものは遠い昔から地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六道のなかに繰り返し生まれ死んできたと述べています。この迷いの世界にいるかぎり、生・老・病・死の苦しみからのがれることはできないのです。
 そして、いくら多くの財宝や権力を持ち、多くの人々に囲まれて生活してきたとしても、死が訪れると、人は絶対的な孤独におちいります。そのとき、父母や妻子や財産など、死から救ってくれるものは、何一つありません。自分独りでそれに臨まなければならないのです。
 しかし、人はこのような絶対的孤独に直面して初めて救いの道を見い出すことができると一遍は考えます。人はだれでも自分の死を思うとき、本当に大切なものは何かと問わなければなりません。この問いに直面して初めて迷いを超えた真実の世界(阿弥陀仏の浄土)に目を向けることができます。そしてこの世界に触れたとき、一切の執着から解き放たれ、本当の自由を獲得することができるのです。一遍は、この道理に目覚めたとき「身命財(しんみょうざい)も惜しからず、妄境既にふりすてて、独りある身となりはてぬ」と語っています。ここでいう「独りある身」とは死の恐怖におびえる孤独の人間を示すものではありません。それはすべての執着から解放された自由人を示すものです。一遍が臨終のとき、所持していた書物をすべて焼き捨てたことは、彼がこのような自由の境地に達したことを表わしています。

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