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きょうのことば

きょうのことば - [2002年05月]

一切苦切の言をもって、すなわち律に入らしむべし。

「一切苦切の言をもって、すなわち律に入らしむべし。」
『維 摩 経(ゆいまきょう)』

 この言葉は、『維摩経』の「香積仏品(こうしゃくぶつほん)」に説かれているものです。そこでは香積という名の仏の国から娑婆世界(しゃばせかい)[私たちが生きているこの世界のこと]へやってきた菩薩が、娑婆世界を見て次のように驚きます。「私の国では、香積仏は言葉を用いずただ香りを放つだけで教えを説かれている。それに対してこの娑婆世界では、釈尊は無数の言葉によって教えを説いておられる。それは人々が道理に暗く頑固なためであるとはいえ、大変なご苦労だ」と言うのです。文中の「苦切」とは、「激しい、荒々しい」といった意味です。そして、そのような激しく荒々しい言葉によって人間を穏やかな状態にしようとすることを「律に入らしむ」と表現しています。釈尊の説く言葉が荒々しいとは、一体どういう意味なのでしょうか。
 私たち人間は、言葉を持つことによって、他の生き物たちとは根本的に異なった生き方をしています。人間は、言葉によって知識を蓄え、様々な文化・文明を生み出してきました。その一方で、私たちは様々に悩み苦しみ、時には自分の人生に絶望することさえあります。これも言葉による知識によってもたらされたものであると言えます。それゆえ、様々な苦しみの真の解決は言葉の根っこに何があるのかを知ることなのです。それにもかかわらず、私たちは自分の悩みの原因が知識不足にあると思い込んでいるのではないでしょうか。そこに私たち人間の大きな暗さがあるのです。
 仏伝によれば、釈尊はみずから正覚を得た後、その内容を他の人間に説くべきかどうか考えたと伝えられています。それは何故でしょうか。おそらく、言葉を身につけることによって様々に悩み苦しんでいる人間に対して、それを越えていく道を言葉によって説かねばならないということが大変な矛盾だったからに違いありません。
 こうした点を踏まえるならば、釈尊の言葉が荒々しいということも肯くことができます。釈尊は、さらなる言葉を重ねることによって、もしかしたら人間をより深い迷いに引き入れかねないという恐れの中で、あえて説法しているのです。それゆえ、自分自身にまったく無自覚な私たち人間を目覚めさせて、本当の生き方を取りもどさせるためには、私たちが聞いて驚くような荒々しい言葉を説かねばならないのです。

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