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きょうのことば

きょうのことば - [2001年10月]

宗教的信念を得た人を無碍人と称する。

「宗教的信念を得た人を無碍人と称する。」
清沢満之

 人生の中では、全く予測していなかった出来事にぶつかることがあります。嬉しいことならば大歓迎でしょうが、事故や病気、また信じていた人や会社に裏切られるというようなことは私たちを大いに悩ませます。「なぜ私がこんな目に合わなければならないのか」と。自分に起こった出来事であっても、受けとめたくはありません。自分の人生に邪魔が入ったと考えてしまうのです。自分にとって邪魔なもの、これを仏教では碍(げ)〔さまたげ〕といい、さまたげがあることを有碍(うげ)といいます。では、この碍はどこからやってくるのでしょう。
 私たちは物事を好きなものと嫌いなものに分けて見るのが習慣になっています。自分が得をするのは好きですが、損をするのは嫌いです。自分の考えを支持してくれる人は好きで、反対する人は嫌いです。ひどい場合には、このような自分の好き嫌いを基準にして、ある人を邪魔だと考えて憎み、殺すことさえ起こります。つまり、邪魔者が始めからどこかにいるのではありません。私たち自身の考え方が邪魔者、すなわち碍を作り出すのです。
 上にあげた言葉は、清沢満之の「宗教的信念の必須条件」と題する文章の一節です。清沢が「宗教的信念を得た人を無碍人と称する」と言うのは、どのような意味を込めているのでしょうか。無碍とはさまたげがないことですから、一見すると邪魔者がいなくなってスッキリした状態のように受け取られるかもしれません。しかし邪魔者を作り出すのが私たちであることを思えば、私たちの生き方が一転しない限り、無碍が実現するはずはありません。その意味で無碍とは、都合でしか生きていない自分の生き方を明らかに知ることからしか始まりません。そこに思い通りにならないことの意味が転じてくるのです。今まで邪魔者と思っていたことが、自分自身の課題として受け止められる眼が与えられるのです。そして、その眼こそ清沢の言う宗教的信念なのです。
 清沢が言う宗教的信念、これがはっきりしないと、結局は自分にとっての利害や都合で物事を見ていることにすら気がつきません。たとえ理想の世界を求めているつもりでも、それは自分の欲望追求と少しも変わらないのです。それがどれほどお互いを傷つけ合うことになるのか、それはこれまでの人間の歴史を見れば、十分過ぎるほど知らされるのではないでしょうか。

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