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きょうのことば

きょうのことば - [2001年09月]

善知識は月のごとし、能く清涼なる教法の光明をもって衆の熱悩を除く。

「善知識は月のごとし、能く清涼なる教法の光明をもって衆の熱悩を除く。」
『華厳経』(けごんきょう)

 奈良の西大寺や安倍の文殊院を訪れると、善財童子(ぜんざいどうじ)像を観ることができます。多くの仏・菩薩像が正面を向いているのに対して、この像は体を斜めに向けて歩もうとする動的な姿勢をとっています。この童子像に接すると、童子のひた向きな姿にだれもが魅了されるのではないでしょうか。
  善財童子は、『華厳経』「入法界品(にゅうほっかいほん)」に登場します。この品は、はじめ、祇園精舍(ぎおんしょうじゃ)を舞台とします。多くの聴衆を前にした釈尊が、師子奮迅三昧(ししふんじんざんまい)に入られ、精舍を仏の智慧の世界に変えるという場面から始まります。しばらくすると、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)は、その智慧にうながされてブッダガヤへと向かいました。その地で文殊と出会ったのが善財童子です。善知識とは、善き師、善き友を意味します。善財童子は、文殊菩薩を第一の善知識として五十三人の善知識を歴訪することになります。童子は、前の善知識から次の善知識を指し示され、南へと旅していきます。
 上に掲げた文は、善知識を訪ねる途中で、善財童子が善知識について確かめた言葉です。善知識は夜空に輝く月のようなものである。清らかな教えという光明を放って、私たちのさまざまな迷いの熱悩を冷まし取り除いてくれる。
  各々の善知識に対して童子が尋ねたことは、一貫して「私はさとりを求める心(菩提心)を発しましたが、いまだ、どのようなものが菩薩の行であり、どのようにして実践するのかがわかりません。どうか教えてください。」というものでした。私たちは、求めるべきものを求めず、求めなくてもよいものを求めようとしているのかもしれません。自分の欲することが実現しないといって焦り、ますます自分の欲望を満たそうとして、熱悩を増すのです。そのような状況に陥った私たちに、善知識は、月の光のように、智慧の眼(まなこ)を与え、冷静さを取り戻させてくれるというのです。
  私たちは、さまざまな人間関係の中に身を置いて生きています。しかし、多くの人たちに取り巻かれているにもかかわらず、孤立感に陥ることがあります。また、孤立を恐れて友だちに近づこうともします。どうしても抜けられない悩みが襲い、悶々とした経験はないでしょうか。それは、自分が本当に求めようとしているものが見えなくなっていることに起因するのです。私たちの本当に求めているものを教えてくれるのが善知識なのです。

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