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きょうのことば

きょうのことば - [2001年04月]

人心の至奥より出づる至盛の要求の為に宗教あるなり。

「人心の至奥より出づる至盛の要求の為に宗教あるなり。」
清 沢 満 之(きよざわまんし)

 現在、本屋やインターネットには宗教に関するさまざまな情報があふれています。一見すると、宗教がさかんなようです。しかし、そのほとんどは人間の欲望を満たすための道具でしかなく、宗教と呼ぶには値しないものなのです。信仰すれば自分の生活を守ってくれるというもの、また信じなければ災いが起こるというものなど、違いがあるように見えても、それに期待をかけたり、おびやかされたりしているだけなのです。
 上にあげた言葉は、本学の初代学長である清沢満之(1863~1903)の言葉です。清沢満之は、東京巣鴨の地に真宗大学(現大谷大学)を開いて、若い学生たちを育てようとしました。それは明治時代、日本の国全体が富国強兵・殖産興業という風潮にある中で、人間の本当の立脚地を明らかにしようとしたものでした。立脚地とは生きていくよりどころのことです。確固とした立脚地がないならば、まわりの風潮に流され、結局は人生が空しく過ぎることを清沢はよく知っていました。
 清沢は言います。

パンの為、職責の為、人道の為、国家の為、富国強兵の為に、功名栄華の為に宗教あるにはあらざるなり。人心の至奥より出づる至盛の要求の為に宗教あるなり。
  ここでは、人の心の最も奥底から突き上げてくる要求のために宗教があると言われています。別の言い方をすれば、人間の様々な欲望を満たすために宗教があるのではなく、いのちの底からわき上がってくる要求に応えるものが宗教だと言われているのです。
 パンの問題、つまり生活の問題が軽いと言っているわけではありません。生活の糧を得ていくというのは現在は特に深刻な問題です。しかし何のために生きているのかということがはっきりしないならば、どのような物を手に入れても決して満足できないという気持ちは誰にでもあるのではないでしょうか。また、功名栄華といわれるように、世間の評価をどれほど得たとしても、空しさを感じたとたんに、今までの私の人生は何だったのかという不安におそわれることもあるのではないでしょうか。
 どうなることが本当の満足であるのか、どのように生きるところに本当のよろこびがあるのか、これを明確にしていくことが何よりも大切なのです。そして、まさにそのことのために宗教はあるのです。

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