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きょうのことば

きょうのことば - [2000年06月]

かなしきかなや道俗の良時吉日えらばしめ天神地祇をあがめつつト占祭祀つとめとす

「かなしきかなや道俗の良時吉日えらばしめ天神地祇をあがめつつト占祭祀つとめとす」
親鸞 『正像末和讃』『真宗聖典』509頁

 「この日は仏滅だから、結婚式は延ばしましょう。」「明日は友引だから、葬儀をひかえることにいたしましょう。」このようなことは、日頃よく耳にする言葉です。また家を建てる際に方角を気にしたり、子供に名前を付ける時に文字の画数を調べたりと、吉凶を占ってもらうような行為も、一般的によく行われています。
 これらのことは迷信であって、本当は気に掛ける必要が無いのだと思いながらも、古くからの慣習に逆らうことに何となく不安を感じるということがあるのではないでしょうか。日の良し悪しや名前の画数を選ぶことには何の根拠もないと思いながらも、それに従うことによって心の落ち着き場所を見つけているのでしょう。
 吉凶に怯えたり、占いに頼ったりすることは、いったい何に基づくのでしょうか。それは、私たち人間が、実生活の中で不安を抱えながら生きていることの裏返しであると言えましょう。日ごろの生活の中で、なるべく災いを除き幸福を得ることを期待して、これらのことにすがるのです。
 表題の言葉は、親鸞が作った和讃です。「僧侶も世俗の者たちも、良い時良い日に執(とら)われて、天の神や地の神を崇(あが)めつつ、占いや祈りごとに余念がありません。なんと悲しいことなのでしょう。」と言います。
 祈ったり占ってもらったりすることによって心が落ち着くというのであれば、それらのものに従って生きることも仕方のないことなのかも知れません。しかし親鸞は、そのような生き方を「かなしきかなや」と言うのです。それは、これらのものに頼って生きることが、その人本来の生き方を見失わせることになるからです。
 占いや祈りは人間の人生を切り開くもののように思われますが、決してそうではありません。かえってその人の生き方を縛るものです。こうした祈りや占いごとに熱心であることは、決して宗教的な生き方であるとは言えません。それは、本来の自分という、主体性を見失った、偽りの生き方であると言えます。親鸞は、そのような人間の生き方を「かなしきかなや」と嘆いたのです。親鸞は、それらに執われ、振り回されることのない自分本来の歩むべき道を、仏教によって獲得することができました。それは、天の神や地の神の呪縛から解放された、自由な道でした。それを親鸞は、碍(さわ)りの無い道、無碍(むげ)の一道と呼びました。何ものにも碍(さまた)げられることのない、自分本来の道を獲得する。それこそが本当の自分の人生であり、本当の宗教的歩みであると言えるのです。

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