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きょうのことば

きょうのことば - [2000年05月]

世間法は欲が支配し、出世間法は欲を支配する。

「世間法は欲が支配し、出世間法は欲を支配する。」
赤沼 智善『赤沼智善著作選集』 第6巻230頁

 毎朝、目を通す新聞で、先日こんな川柳に出遇いました。

「昔より 楽なのに皆 疲れてる」
私たちの生活を振り返ってみれば、かつては存在しなかったものに取り囲まれていることに気がつきます。例えば、自動車、電化製品、コンビニ、ケータイ電話等々。それらを手にすることで、確かに私たちの生活は、より早く、より楽で、より便利になったに違いありません。その一方で、このように豊かになったために、慌ただしくて徒労感におそわれることもしばしばあります。それ故に、豊かな生活を手に入れてももう充分だという満足感がありません。それどころか、もっと便利でもっと楽な生活を求める欲望は一層強くなっているようにさえ感じます。私たちの欲望の根っこにあるものをはっきりさせなければ、何を手に入れても結局満足できないということを繰り返す事になるのではないのでしょうか。
 表題の一文は私たちの日常的な生き方と釈尊の智慧との関係を端的に表現しています。その中の「世間法」とは、上に述べたような私たちの日常的な生き方を表しています。釈尊は欲望に支配されている私たち人間に対して、欲望に振り回されない生き方(出世間法)への転換を説かれたのです。
 人間のこころの底には貪(とん)[むさぼり]・瞋(しん)[いかり]・癡(ち)[無明]という三つの煩悩があると釈尊は教えています。さらに、その三つの関係は、無明が根本となってむさぼりといか りが生ずると明かしています。その無明とは、欲望との関係で言えば、どういうことが本当の満足なのかを知らないということです。本当の満足を知らなければ、何をどのように手に入れてみても決して満足できないことは言うまでもありません。人間の「もっともっと」という終わりのない欲望の裏には満足に対する無知があるのです。従って私たちがその終わりのない欲望から自由になるためには、自分はもう充分に与えられ満たされているということに自ら気付く以外にないのです。このような自覚を、欲望に振り回されずに日常生活を生き抜いていく道という意味で「出世間法」と言っているのです。


赤沼智善(1884-1937) 元本学教授、昭和初期の仏教学者。漢訳の阿含経やパーリ語のニカーヤの研究を通して初期の仏教教団や釈尊の教説を研究。著書の『印度仏教固有名詞辞典』や『漢巴四部四阿含互照録』は、現在でも仏教研究に欠くことができない。

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