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きょうのことば

きょうのことば - [2000年02月]

不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり

「不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり」
親鸞 『正像末和讃』『真宗聖典』505頁

 人間は誰しも、不幸から逃れたい幸福になりたいと願いながら生きています。その願いは、自分一人だけにではなく、家族や友人など、親しい人にもかけられます。いつも健康でいられますように、商売が繁盛しますように、希望の学校に入学できますようになど、私たちが幸福を求める姿は、百人百様です。
 確かに人間が、自分や家族の幸福を求めることは、生きていく上での自然な姿なのかもしれません。誰も家族の不幸を願ったりはしないでしょう。しかし、親鸞は、そのような私たちの生き方が、実は人間として生きるべき本当の大地を見失わせることになるのだと言います。
 表題の言葉は、親鸞が作った仏法讃嘆の詞、和讃です。「仏の智慧を知らず、仏の智慧を疑うものは、不幸だとか幸福だとかいうことばかりにとらわれて善を求めるあまりに、自ら辺地にとどまり本当に生きるべき大地を見失ってしまうのです」と言っています。
 仏の智慧は、雨に譬(たと)えられることがあります。雨は、美しい花にも雑草にも、分け隔てなく平等に降り注ぎます。しかし私たちはどうでしょうか。美しい花と雑草とを区別し、雑草を取り除き、妙(たえ)なる花ばかりに水を与えるのではないでしょうか。このようなあり方は、幸と不幸を分別し、幸ばかりを求め、禍いを遠ざけようとする生き方を象徴します。これは、結局は自分にとって都合の良いものばかりを求めて生きるあり方を表すのです。
 美しい花にも雑草にも平等に降り注ぐ仏の慈悲の心、そのような仏の心を知る者は、身心柔軟(にゅうなん)の人になると言われます。柔軟とは、風になびくインドの草、迦旃隣陀(かせんりんだ)の葉に譬えられます。それは、風をうけてひるがえりめぐります。風のままに起きあがり、風のままに倒れる、柔軟の様です。
 不幸を逃れ幸福ばかりを求める人間は、他の生命を犠牲にしながら自分たちの生命ばかりを保とうとしてきました。そして今、人と人との間でも、他人の命を自分の命に替えることによって、自分や身内の死を、生に変えようとさえしています。柔軟の身となる。生が来れば生、死が来れば死。生も人間なら、死も人間。仏の智慧を知って柔軟の身となり、本当の自分の命の大地に帰ってくださいと、この言葉は叫びかけているのです。

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