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今という時間

今という時間 - [262]

「過疎の村から 4.神さま仏さま」
加治 洋一(かじ よういち)

 村の各戸にはそれはそれは立派な仏壇と神棚が鎮座している。村中が同じ寺の檀家であると同時に、同じ神社の氏子でもある。必然、各種宗教行事が年中目白押しとなる。お寺関係では、お葬式は勿論、年忌に月参り、お彼岸やお盆の墓参り、さらに報恩講はお寺と村で日を変えて行われる。
 一方神さまの方も負けてはいない。お灯明あげから、若水とり、元旦の参詣に、百日参りと七五三、さらに節季ごとの祭礼まで、こちらも様ざまな行事が厳粛に執行される。
 たまさかこの村の檀那寺のご住職と知り合いになった。彼の村人観と村人のお寺(お墓)観とが見事に食い違う。その食い違いが傍から見ていて不謹慎ながら面白い。
 お寺さんは、村人にとってお寺こそが拠り所であるべきだと考えるが、村人にとってお寺さんと神さまはどちらも同じくらい大切である。お寺さんは仏教は先祖崇拝ではないと教えるが、村人にとって仏さまと言えば御先祖さまに他ならない。行事毎にあげるお経を、お寺さんは仏法に会う機縁だと説明するが、村人は御先祖さまの霊を鎮める有り難い呪文だと信じている。結句、お寺さんは村人を縁なき衆生と憐れみ、村人は口先だけの欲深坊主と不満を募らせる。
 同じ事柄でも見る立場で見え方が違うなどという暢気なことではない。人の人生観・死生観に関わることなので、ことは重大である。実はこのような食い違いすれ違いが日常の多くの局面で生じているのに、素知らぬ顔で、気づかないふりをして我われは生きているのではないか。少々不安にもなる。

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