今という時間 - [200]
「「超ビミョー」な問題」
芦津 かおり(あしづ かおり)
学生との年齢差などふだんは忘れている。だが、彼らとの間に深い溝を感じるときがある。コンパなど、くだけた場での会話だ。
「スタバ」・「きしょい」などの初級はなんなくクリアー。文脈から察しはつく。要は短縮形を見ぬくことだと心得て、「コクる」(告白する)は「コックリさん占いをすること?」、「テンパった」(パニックに陥る)という学生には「キャンプで?」と尋ねると、学生たちの表情がこわばる。まずい。「私の頃はレモンスカッシュをレスカと呼ぶのがおしゃれでね」と言った時点で万事休す。「超サムー」い雰囲気がただよった。
活字離れやメール文化による若者の言葉の「乱れ」が危惧されて久しい。たしかに伝統ある日本語が失われていくのは残念だ。言語が思考や認識のあり方を支配するという点では、「通じればよい」で片づく問題でもない。
しかし、社会や価値観が変容するなかで、言葉だけが不変というわけにはいかない。ルネサンス期の英国では、シェイクスピアが無数の新語をあみ出し、すさまじい勢いで変貌をとげゆく当時の人間と社会をみごとに表現した。近代英語の確立と成熟に彼がおよぼした影響は計り知れない。
現代日本の新語にも、時々刻々うつりゆく世相や人間をスパッと切りとる新鮮な表現は存在する。めくじら立てずとも、優れたものだけが生き残るだろう。あまりにも楽観的な考えだろうか。「超ビミョー」な問題である。