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今という時間

今という時間 - [070]

「語る・聴く・黙す」
大河内 了義(おおこうち りょうぎ)

 あるときスイスはチューリヒでの会議に参加した。テーマは「よい対話とは」だった。「対話」Gesprachというドイツ語が「話す」sprechenに由来するように……と早速盛んな議論が展開されたが、私はまずは聞き役に廻った。発言を求められたが、今一生懸命に聴いていますとのみ答えた。
 しばらくして再び発言をうながされたので、実は私なりにすでに対話に参加しているつもりだ、対話が「よい」対話になるためには、語る人はむろん必要だが、それと同じく聴く人の存在が重要で、それでなくては独語(モノローグ)が飛び交うだけになろう。また語る人と聴く人の役割は相互に交換可能でなければならないだろう、と述べた。
 仏教の窮極の真理は、と問われてついに一言も発しなかった維摩居士(ゆいまこじ)を「維摩の沈黙百雷の如し」と讃えたインドの故事は、沈黙の偉大さ・積極性を証するものであろう。
 幼いときからことばによる自己主張を訓練されている欧米の人たちは、よく、ままよすぎる程に、語るが、聴くことは上手でない。
 逆に、沈黙が消極性を帯びて「口は禍のもと」というような雰囲気に育つ日本語人は、私的なおしゃべりは別 として、公的な場所で責任を伴う自己表現をすることがひどく苦手のようだ。
 語ることのできる人は黙して聴くことを、聴くことのできる人は積極的に語ることを、共に学ぶことによって、はじめて実りある対話が成り立つのではなかろうか。

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