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2012年度新着一覧

2012/08/09【学術研究】

宮﨑健司ゼミ 「久多フィールドワーク」学生リポート

昨年、日本最古の木造五輪塔が、京都市左京区の久多にある志古淵神社で発見された。久多とは、京都市内の左京区に位置してはいるが、いくつもの峠を越えなければたどり着けない山々に囲まれた集落である。
そこでは以前、鎌倉時代につくられた『大般若経』が発見され、現在、大谷大学博物館にて保管されている。そして今回の五輪塔の発見。
それらのことをうけて私たちは、久多にはいまだ知られていない文化が残っているのではないかと考え、現地に赴き、久多の伝統文化である【①花笠踊】【②大般若経の転読】【③筏流し】の3つに焦点をあてて調査を行った。

  • 久多の五輪塔と大般若経<大谷大学博物館寄託 久多自治振興会所蔵>
  • 久多の五輪塔と大般若経<大谷大学博物館寄託 久多自治振興会所蔵>

久多の五輪塔と大般若経<大谷大学博物館寄託 久多自治振興会所蔵>

久多は、京都市左京区の最北端に位置する山間の集落である。
北に三国岳、西に広河原、南に花背、東に葛川(現大津市)に接している。歴史は古く、康平7(1064)年に法成寺領として初見、嘉暦3(1328)年には足利家領、文安6(1449)年頃には醍醐寺三宝院領とみえ、天正7(1579)年織田信長により久多庄代官職が朽木氏に付された。
中世以来、葛川との境相論があり、近世には安曇川筋筏相論、幕末には村の帰属をめぐっても争った。江戸時代には、上・中・下・宮谷・河合の5か村があり、現在は上ノ町・中ノ町・下ノ町・宮ノ町・川合町の5町で構成され、人口は90人ほどである。

現在の久多の風景

現在の久多の風景

【① 花笠踊】(重要無形民俗文化財)

現在でも久多で毎年8月24日に行われている「花笠踊」。花笠踊とは、久多の町内の5つの村が上・下の組に分かれ、各組で作った花笠を男性が手に持ち、地域の上の宮神社、大川神社、志古淵神社、そして久多地域を練り歩く。また大川神社、志古淵神社では、互いに違う歌を歌い競い合う。そして安全祈願・五穀豊穣を願うという行事である。一見素朴な行事に見えるが、実はこの花笠踊には興味深い点が多くある。

  • 駒池重尚さんから聞き取り調査
  • 実際に使用された花笠

駒池重尚さんから聞き取り調査
実際に使用された花笠

重要無形民俗文化財指定の証書

重要無形民俗文化財指定の証書

まず、この祭りに女性が関わることはできない。これは花笠踊の当日だけでなく、花笠の製作の段階からである。花笠の製作は8月14日から始まる。その日は4軒の花宿と呼ばれる各地域にある家に集まり花笠を作る。
花笠とは木の枠を作り、その枠に「透かし」と呼ばれる切り紙細工を張り付け、その上に紙・木の芯などで作った菊、はす、牡丹、バラなどの花・葉の部分を作り木の枠の上に飾っていく。今回の調査で見せていただいたのは、ハシマメと呼ばれる植物の茎の芯をくりぬき、適当な長さに切っていき、切ったハシマメの芯を棒に巻きつけてカールさせ、それを重ね合わせて菊の花を作り上げていったものであった。このようにしていろいろな種類の花を作る。そして茎・花などを積み上げて、1メートルほどの大きさに作り上げていく。それにより一つ一つ違う花笠が完成する。花笠踊当日には、その花笠が夜の暗闇の中に花笠だけが浮かび上がるのだ。

  • 昨年の花笠踊の様子<写真提供:東祥司 氏>
  • 昨年の花笠踊の様子<写真提供:東祥司 氏>

昨年の花笠踊の様子<写真提供:東祥司 氏>

花笠踊が終わると同じ組の人が集まり、「笠破り」として踊りで使用した笠を壊すのが慣わしであったとされる。しかし、近年では久多地域の高齢化や過疎化によって花笠踊に参加する人が少なくなり、「笠破り」は行わず、花笠を志古淵神社などに保管している。国の重要無形民俗文化財に指定されていても、地域での伝統行事を守り続けることの大変さを知ることができた。
今回、花笠踊についてのお話を聞かせていただいた久多在住の駒池重尚さん(63)は、この花笠踊は久多地域にとってのアイデンティティと考えている。「久多が久多であるためには、後世まで残していかなければならないものであって、私たちのコミュニケーションの場でもあるのです。これからも続けていきたいですね」と伝統行事を受け継ぐ熱意を語っておられた。

<花笠踊担当の学生コメント>

文学部3学年
寺岡大輝 : 文化が受け継がれている地域の大切さ・努力がわかった。
滝口晴美 : 久多は自然が多く長閑で空気が澄んでいました。そんな久多を広く知ってもらいたい。

文学部2学年参加者
西田ひとみ 佐々木まり 加納宗馬

【② 大般若経の転読】

志古淵神社の倉庫の中で見つかった『大般若経』は約600巻あり、保存状態はよかったが、鎌倉時代初期の写本でたいへん貴重なものであったため、大谷大学博物館に調査および保管を依頼することになったという。また近年、古い木造の五輪塔が発見されたが、社殿の中にあった狛犬が窃盗の被害にあうなど、自治会で管理するのは不安だということで、あわせて大谷大学博物館に寄託されることになった。
久多の観音講として毎年8月10日に『大般若経』の転読は行われている。従来は、上述の鎌倉時代の古写経で行われていたが、現在は転読用に新しく作られた経典を使っているそうである。しかし、この経典は、60~80年前に町の人たちが寄進して作られたものだそうだが、くわしいことはわからないそうである。折本形式で400~500帖あり、毎年10~20帖が転読されている。

  • 岩渕源之進さんから聞き取り調査
  • 観音堂への入口

岩渕源之進さんから聞き取り調査
観音堂への入口

観音堂への道中<急勾配な崖道>

観音堂への道中<急勾配な崖道>

現在の観音講では、花背にある禅宗の寺院の僧侶を招き『大般若経』を転読している。観音堂のなかには、西国三十三箇所の観音菩薩と燭台がある。観音堂は年に観音講が行われる一回しか開けられなかったため、中にある観音菩薩像は湿気で金箔がはがれてしまっている。
ここでの観音講には村全体が関わるが、転読を行う観音堂は山の上にあり、急勾配の崖道をのぼらなければならない。雨天時に訪問した私たちも、幾人かは足を滑らし、恐る恐るのぼることとなった。久多の人口は3分の2ほどが80歳以上となっており、崖をのぼることができず、毎年6~7人ぐらいしか参加することができないという。今では地元の参加人数は年々減少しており、8月10日に観音講があると知って地域外から来る人のほうが多いそうである。観音講が終わると、観音堂では、参加者の持ち寄りによる会食が行われる。

  • 観音堂へ到着
  • 観音堂の内部を見学

観音堂へ到着
観音堂の内部を見学

観音堂は鬱蒼とした樹木に囲まれている

観音堂は鬱蒼とした樹木に囲まれている

4年前に岩渕源之進さん(73)が自治会長になってから、年に春・夏・秋の3回観音堂を虫干しするようになったそうである。
観音講を続けることについて岩渕さんは、「『大般若経』の転読の他に、久多で行われている虫送りや花笠踊などの伝統行事も大切に伝えていくことができたら良い」とおっしゃっていた。岩渕さんから聞いた『大般若経』の話を、このようなかたちによって伝えることで、それが多くの人に久多の伝統文化を知ってもらうきっかけとなり、久多の伝統文化への参加者が増えて後世へと伝わっていけば良いと思った。

<大般若経担当の学生コメント>

文学部3学年
内山大志 : 普段の生活の中では見ることがない一面を見ることができた。
岩﨑彩夏 : 緑に溢れ、その中にある歴史的遺産を多くの人々に伝えていきたいと思った。

文学部2学年参加者
入江誠 大石紗絵 太田菫

【③ 筏流し】

現在、途絶えてしまった伝統産業の筏流しについて、久多の最高齢で唯一の経験者である小阪源逸さん(88)から、とても臨場感あふれる貴重なお話を聞くことができた。
久多地域での筏流しは、久多川を使って安曇川まで流し、最後は琵琶湖の船木まで運んでいたそうである。ちょうど私たちが訪問した6月頃から材木の伐採が始められ、秋まで乾燥させ、冬に雪が降るとその上を滑らせて、川の渕まで運び降ろしたそうで、トラックのない時代には最も効率的な方法だったようである。
筏流しの方法は次のようにおこなう。まず、川の渕まで伐採した木材を運び、それらを木材の太さを揃えてつなぎ合わせ、ひとつの筏にする。筏の長さは4メートル程度。その筏を8~9段に繋ぎ合わせる。筏の先頭部分には細めの材木で幅1~2メートルにし、後ろの方は太めの材木で4~5メートル程度の幅にして、細い筏が太い筏を引くようにしていたという。先頭の筏に一人が乗り、後ろに二人が乗り込み、計三人で筏を操って流したようである。昔は、久多ではこのように筏にして流した木材で生活費を稼ぎ、主にそれによって生計をたてていたそうである。

  • 小阪源逸さんから聞き取り調査
  • 小阪さんを囲んで記念撮影

小阪源逸さんから聞き取り調査
小阪さんを囲んで記念撮影

この筏流しを行っていたという久多の川は、川の狭さと水量の少なさで、筏をここで流したら、ごつごつとした大きな岩に追突して壊れてしまうと思えた。
現在の久多川の水量は、昔より大幅に減っているそうだが、昔も1年中筏を流していたのではない。筏を流すためには、春先の雪解け水を利用していたようである。久多は同じ京都とはいえ、かなりの山間部にあり、5月頃でも家々の軒先には雪が残っているほどの豪雪地帯である。その大量の雪解け水により、川の水量が増える時期に川に堰を作って水をため、大きな岩が隠れるほどになると、いっきに流して行くそうである。
流す前の準備段階として、「石だな」と呼ばれる石の段に木の棒を差し込み、柵のような役割をもたせ、川の水を一時的に溜めて、その水を解放する時の水の勢いを利用して筏を流す。川の途中には何箇所か同じように水を溜めて流す箇所があり、その都度筏に乗っている人たちが自分で柵をはずしていた。この流し方は、久多の自然環境を利用したもっとも効率のよい方法だ。

  • 現在の久多川の様子
  • 筏流しについて語る小阪さん

現在の久多川の様子
筏流しについて語る小阪さん

しかし今では、木材を運ぶ手段がトラックへと移り変わり、材木の値段が下落してくると次第にその需要は薄れ、伝統産業も絶えてしまった。筏流しは一つの時代の、一つの村の経済活動の基盤であった。そのように絶えた伝統を後の世代に伝えていくことが重要だと感じた。

筏流しのイラスト

筏流しのイラスト

<筏流し担当の学生コメント>

文学部3学年
都馬由起子 : 田舎だからこそ貴重な伝統文化が残っており、貴重な体験ができた。
村形 舞   : ジブリの世界に迷い込んだようだった。

文学部2学年参加者
野口有希 眞鍋芙美 安川千絵

【久多をフィールドワークして】

宮﨑ゼミ

私たちは久多へのフィールドワークをとおし、現地の人々から話を聞く事で、町に対する愛情や、伝統を引き継ぐことの大切さをひしひしと感じた。 今回調査した3つの事柄に共通するのは、どれも現地の人々にとってコミュニケーションの場であり、生活に根ざしたものであることがわかった。 これからも久多のように貴重な伝統文化を受け継いでいる地域のことを、私たち若い世代が発信していく事で、住民の方々が自然環境と共存する生活の知恵や工夫を受け継いでいく事が出きるのではないだろうか。

宮﨑ゼミ

宮﨑ゼミ

※今回の久多地域のフィールドワークについては、8月15日の京都新聞(夕刊)「@キャンパス」でも紹介されました。

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