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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [301]

人心地

「人心地」
一楽 真(教授 真宗学)

 物事が一段落して落ち着いたときに「人心地ついた」と使われる。快適な場合は「心地よい」と言われ、大きな恐怖を感じた際には「生きた心地がしなかった」と言う。「心地」は、その時その時の人の心の在(あ)り処(か)をよく表わす言葉である。

 仕事に追われあくせくしていると、つい周囲のことが見えなくなってしまうことがある。結果や業績を残すことだけに執(とら)われると、周り全部が敵か邪魔者であるかのように感ずることにもなる。人心地がつくとは、人としての心を取り戻した瞬間を言うのではなかろうか。

 親鸞が着目している一つの物語がある。『大般涅槃経』という経典に説かれる阿闍世(あじゃせ)の物語である。目先の感情に流されて、実の父である王を殺してしまう王子の物語だ。今から二五〇〇年ほど前、釈尊が実際におられた古代インドのマカダ国での出来事である。

 阿闍世は憎き父を餓死させるのであるが、かえって後悔の思いに強く迫られる。眠ることもできずに、熱病にかかり、身体中の毛穴から膿が噴出してくる。そんな中で阿闍世は、父を殺した私は、地獄に堕ちるに違いないと思い悩むのである。

 その阿闍世に対して、阿闍世につかえる大臣の一人で、医者でもあった耆婆(ぎば)が言う。人間を苦しみから救うのは慙愧(ざんぎ)の心だと。慙愧とは申し訳ないことをした、人として慙(は)ずべきことをしたという心のことである。耆婆は、もし慙愧の心がないならば、それは人とは言えない、畜生であると言うのである。

 ここで「畜生」と言われているのは、決して動物たちのことではない。また、死んだ後に来世に畜生道に落ちるという話でもない。慙愧の心がなければ、たとえ姿形は人であっても、とうてい人とは言えないという意味である。

 さて、人心地がついたという場合、ホッと一息ついたことには違いなかろう。ただ、その上で、本当に人としての心を取り戻したと言えるかを顧みることが大事である。貪りや怒りの心に振り回されて畜生のようになってはいないか。日ごろの生き方をふり返ってみる必要がある。

(『文藝春秋』2011年11月号)

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