生活の中の仏教用語 - [232]
「会釈」
木村 宣彰(きむら せんしょう)(仏教学 教授)
四国松山から東京へ初めて旅をした正岡子規は「東京はこんなにきたなき処かとおもへり」と最初の印象を記している。志を抱いて十七歳で上京した子規が、二十数年にわたり書きためた随想『筆まかせ』の中には「横着」と題する一文もある。
我レ彼レを知るも彼レ我レを知らざる時ハ彼に礼をなすも無効なり。松山にいた頃は誰彼となく、顔見知りか否かを問わず、行き交う人たちが互いに挨拶を交わしていたが、都会では、挨拶もしない横着者が多かったのであろう。
人に会ったり別れたりするときに取り交わす「こんにちは」「ごきげんよう」という儀礼的な挨拶に対して、気軽に首(こうべ)を垂れて一礼するお辞儀を会釈という。お辞儀もせず、傍若無人に振る舞うと「遠慮、会釈もない」と非難されることになる。では、このようなお辞儀のことをなぜ「会釈」というのであろうか。
この会釈という語は、もとは仏教経典の解釈に関する用語であった。経典の中には一方で有といい、他方では無というように前後相違して見える内容を説く場合がある。そのような異説を相互に照合し、その根本にある真義を明らかにすることを「和会通釈(わえつうしゃく)」と呼んでいる。この四字熟語を「会通(えつう)」あるいは「会釈」と省略して用いる場合が多い。この仏教用語としての「会通」も「会釈」も表面上は互いに矛盾するように見える教説を意義が通じるように解釈することを意味する。
しかし、あまりにも強引に、無理な解釈をすると、『沙石集(しゃせきしゅう)』の中に「講師、これを聞きてあまりに会釈すぎたり」とあるように非難される。
このような経典解釈の用語から転じて、多方面に気を配り、相手の心を推しはかって応対することを「会釈」というようになった。もとは相手のことを思いやる精神的な意味合いの言葉であったが、今日では心遣いよりも身体的なお辞儀のような対応を指すようである。
昨今の風潮を悲しみ、「いろ・かたち」の背後にある「見えないもの」にこそ想いを寄せて欲しいと願わずにはおれない。