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きょうのことば

きょうのことば - [2007年11月]

畢竟依を帰命せよ

「畢竟依を帰命せよ」
親鸞『浄土和讃』(『真宗聖典』p.479)

 上に掲げた言葉は、親鸞の『浄土和讃』のなかにあります。「畢竟依」とは、究極の依り所ということです。「帰命」とは、自己存在の全体を挙げて依るということです。
ですから、上の一文の意味は、

本当に依るべき究極の依り所を根拠として生きなさい
ということです。

 私たちは、さまざまな依り所を持って生きています。お金、地位、会社、恋人、家族、学歴、知識、体力、健康などがそれに当たるでしょう。それらの依り所があるから、「お金や地位のために頑張ろう」などと生活に張りが出てきますし、また生きていくことの目標にもなります。

 しかし、お金や地位などはいつも自分の思い通りになるとは限りません。むしろそうならないことの方が多いのではないでしょうか。そして思い通りにならないとき、私たちは悩みますし、元気をなくしてしまいます。それが高じると、生きていく目標を見失い、生きているのが辛くなります。なぜそのようになるのでしょうか。それは各自の依り所が、時や状況のなかで変化していくものだからです。

 それでは、いかなる状況でも、どのようなことが起こっても、揺らぐことのない、究極的な依り所とは一体何なのでしょうか。それは阿弥陀仏であると親鸞は示しています。阿弥陀仏とは、すべてのものは変化して止まないということを徹底して照らし出し、その上で、すべての命あるものが一歩一歩確かに歩んでいける道を、いつも呼びかけ続けている仏です。その阿弥陀仏のはたらきだけは、状況がどのように変化していこうとも微動だにしません。むしろ変化していく状況のなかで、ますますその確かさを証明していくものです。このような依り所が明らかになるならば、状況が変化するなかでいたずらに嘆くということもないのでしょう。

 刻々と変化していく現実の中で、どのように生活環境が変わろうとも、また自分自身がどのようになっていこうとも、そのことの真っ直中( ただなか)にいつも変わらずに人間に呼びかけているはたらきが阿弥陀仏なのです。そのはたらきに出遇(であ)った親鸞は、阿弥陀仏を自己存在が依るべき究極の根拠として生きていったのです。

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