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きょうのことば

きょうのことば - [2002年03月]

如来の身は金剛の体なり。

「如来の身は金剛の体なり。」
『維 摩 経』

 大乗経典に『維摩経』があります。そこには維摩居士(ゆいまこじ)が登場します。居士とは、家に居る人つまり在家者のことです。維摩は大乗の智慧の体得者であり、これを登場させることにより、これまでに理想とされてきた出家者の仏教は小乗であって、大乗こそが本当の仏教であることを示そうとしています。『維摩経』の中には、維摩の立脚する大乗と、出家者のみの仏教である小乗との関係を端的に表している場面があって、維摩は仏弟子たちを痛烈に批判し、大乗の仏教を語ります。
 上に掲げた言葉は、維摩が阿難(あなん)に対して「如来の身」とは何かを語ったものです。如来とは、仏・世尊(せそん)ともいい、真理(如)よりやって来た者という意味です。阿難は、だれよりも多くの教えを聴聞した仏弟子であり、長い間、侍者として世尊にお仕えした人です。彼は、世尊が病気がちなことを察して、牛乳をさしあげようと思いました。そこで、鉢を持って、牛乳を布施してもらえそうな家の門前に立っていました。そこに維摩が来て「なぜそこに立っているのですか」と尋ねました。阿難が「世尊が病気がちであるため牛乳をさしあげようと思ったからです」と答えた途端、維摩は言います。

やめよ、やめよ、阿難よ、そのようなことを言ってはいけない。如来の身は、ダイヤモンド(金剛)のように壊れることのないお体なのだ。如来はさまざまな悪を断ち切り、一切の善を身に具えている方だ。それなのに、如来にどういう病気や苦悩があるというのか。黙って立ち去りなさい。
 一口に仏といっても、阿難と維摩とでは見えている仏にちがいがあります。阿難は、「世尊」の体が自分と同じような肉体で、病気がちであると見ています。対して、維摩は、世尊を如来として見ていたのです。「如来」の身は金剛石のようにしっかりとしたものであり、自在なはたらきをもつものであると見ています。阿難に見えているのは、仏弟子としてお仕えしている「世尊」であり、肉体をもってやがては入滅していく仏なのです。さとりを得た方であっても、肉体があるために、欲望が生じたり、病気にもなるような仏に見えているのです。しかし、維摩が見ている仏は、人間の延長線上にある「世尊」ではなく、「如来」でした。仏を仏にさせている本質、さとりそのものに彼の眼は向けられています。
 阿難のような仏弟子は、仏の教えを聞いてさとりを得ようとすることから、声聞(しょうもん)と呼ばれます。維摩は、その立場から見る仏ではなく大乗の教えに立った仏を示そうとします。それは欲望を生み出すもととなる肉体としての仏ではなく、世尊が目覚めた真理そのもの、法身(ほっしん)を意味します。それ故に、如来の身とは、どのような病気や苦悩さえも離れた金剛の体であると教えているのです。

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