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Home > 読むページ > きょうのことば > 無慙愧は名づけて人とせず。

きょうのことば

きょうのことば - [1999年07月]

無慙愧は名づけて人とせず。

「無慙愧は名づけて人とせず。」
親鸞『教 行 信 証』信巻『真宗聖典』257頁

 「あんなひどいことをするなんて、とても人間とは思えない。」信頼を裏切られたり、信じられないような仕打ちを受けた時、口を突いて出ることがあります。そこには、人間として許されるべきではない行為ということが前提になっています。しかしながら、いったい何をもって人間というのだろうかと考えてみると、問題はそんなに簡単ではありません。
 人間にとっての教育ということを生涯の課題とした林 竹二(1906~1985)は、「人間について」という授業の中で、「人間に生まれたということだけで人間と言えるだろうか」という問題提起をしています。それは、人間とは、人間として育てられ、学びを通して人間になっていく必要があることを述べているのです。では、何を学べば本当の意味での人間になったと言えるのでしょうか。
 表題に挙げた言葉は、『涅槃経(ねはんぎょう)』というお経の言葉で、親鸞 (1173~1262)が『教行信証』信巻に引用しているものです。父を殺してしまい、大きな苦悩を抱えている阿闍世(あじゃせ)王に対して、耆婆(ぎば)という大臣が仏の教えとして、次のように述べる中に出てきます。

慙(ざん)は内に自ら羞恥(しゅうち)す、愧(き)は発露(ほっろ)して人に向かう。慙は人に羞(は)ず、愧は天に羞ず。これを慙愧(ざんぎ)と名づく。無慙愧は名づけて人とせず。
 罪に対して痛みを感じ、罪を犯したことを羞恥する心が慙愧です。慙愧がなければ、人と呼ぶことはできないと言われているのです。
 誰かを傷つけることは確かに問題です。また、傷つけまいと思っていても、傷つけてしまうこともあります。しかし、そのことをどう受け止めているのか、これはもっと大きな問題です。
 耆婆は次のように続けます。
慙愧あるがゆえに、すなわち父母・師長を恭敬(くぎょう)す。
慙愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。
善(よ)いかな大王、具(つぶさ)に慙愧あり。
慙愧の心が人間関係を開くのであると。
 慙愧においてはじめて人を人として敬うことが成り立つのです。慙愧の心がなければ、人間関係を生きていながらも相手を人として見ることができません。慙愧によって人と人との間を生きる、文字通り「人間」たらしめられるのです。耆婆が阿闍世王に対し、慙愧の心を懐いていることが大事だと言ったのはこのためなのです。
 本当の意味での人間となっていく原点、それが慙愧なのです。

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