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Home > 読むページ > きょうのことば > この身は幻の如し、顚倒より起こる。

きょうのことば

きょうのことば - [1997年02月]

この身は幻の如し、顚倒より起こる。

「この身は幻の如し、顚倒より起こる。」
『 維 摩 経(ゆいまきょう)』 『方便品(ほうべんぼん)』『大正大蔵経』第14巻 539頁

 『維摩経』は、維摩詰(ゆいまきつ)という一市民が仏の世界を説いているという点で非常に特徴ある大乗経典です。維摩詰は、ヴァイシャーリという東北インドの大都市に住んでいました。一市民であるがためにその行動は、いわゆる聖人とは異なって泥臭い生活感に満ちたものでした。酒屋にも出入りするし、博打も打つといった具合です。ただ一つ違うのは、維摩詰が酒屋に出入りするのは自分のストレス発散や楽しみのためではなく、酒屋に出入りせざるを得ないという現実のまっただ中に、真実があるという事を人々に説くためでした。そんな維摩詰ですから友人も多く、いろんな職業の人々がいました。
  あるとき維摩詰はそんな友人達に、一遍に教えを説くためのとても巧妙な方法を思いつきました。それは自分自身が病気になるという前代未聞のものでした。自分が病気になれば友人達は見舞いに来てくれます。見舞いに来てくれれば病気をきっかけにして仏の教えを説くことができます。そんな途方もない計画でした。表題のことばは、そのような状況の中で説かれる一節です。釈尊が人間の老病死の苦しみを自覚して出家されたように、病気は人間が自己の根本の問題に出会うためのよい機会です。普段、私たちは自己の存在を確かなものと考えていますが、それが問いなおされるからです。ところで、私たちが自己の存在を確かなものだと思っている根拠はどこにあるのでしょうか。人間は考える存在であり、自己の考えを根拠として生きていることは言うまでもまりません。しかし私たちは考えるから生きているのではありません。生きているから考えるのです。この関係があるときから逆転して、考えることを根拠とする生き方が始まったのです。この逆転を仏教のことばで「顚倒」と言います。そして、根拠でないものを根拠としている有り様が、ここでは「幻」と言われているのです。
  幻とは、それが幻であると気付かない人にとってのみ存在するものであり、その正体を知っている人にとっては、根拠のない存在しないものです。それゆえ、私たちが考えの中に見いだした自己自身を根拠としていることは、自分の本当の事実に気付いていないことになります。このような私たちの有り様を維摩詰は、幻・泡・夢・影・浮雲などの譬(たと)えを挙げて教えているのです。そして、人間のこのような誤りを正すはたらきが仏の智慧であることを教え、さらに人間の本当の根拠としての「仏身」を求めなければならないことを教えるのです。

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