きょうのことば - [2001年06月]
「吾、当に世において無上尊となるべし。」
『仏説無量寿経』
この言葉は、『仏説無量寿経』に出ています。釈尊がこの経をお説きになる時、その場に居て教えを聞く菩薩たちが、どのような生涯を生きられたのかを語るところに出てきます。彼らは、釈尊と全く同じ生涯を生きられたかたとして説かれています。
経によりますと、菩薩たちは、この世に生まれるとすぐに七歩あるいて、「吾、当に世において無上尊となるべし」と声をあげたと言われます。もちろん人間の子どもは、生まれてすぐに歩くことも、言葉をもって語ることもできません。にもかかわらず、あえてこのように表現しているのは、なぜでしょうか。それは、オギャ—と叫んで生まれてくる赤ん坊の声に、人がこの世に生まれてくる意味を聞き取ろうとしているからです。
無上とは上がないということです。上がないということは下もないということです。だから、「無上尊」とは、上とか下とかという比較するこころから解放されて、それ自身で尊いということです。だからまた、すべての人を真に尊いものとして敬うことができるのです。「無上尊となるべし」とは、そういうものになりたいということです。
ところが、私たちは、他の人にはない勝れたものをもつことが尊いこと、価値のあることだと考えています。そして、そのようなものになることが安定と満足とをもたらすと思い込んでいるのです。だから、最も尊いものになろうとして他の人と争って、一番になることを目指して生きているのです。しかし、他の人との競争に打ち勝って一番を目指すことは、限りない排除と争いを伴うことになります。だから、どれだけがんばっても本当に安定し満足することはないのです。今日の底知れない不安と空しさの原因は、このような生き方に根っこがあると言っていいでしょう。
この「吾、当に世において無上尊となるべし」とは、価値の有る無しに縛られて、この世に生きる意味を見失って苦悩する今日の私たちに対する釈尊からのメッセージなのです。そして、親鸞は、この『仏説無量寿経』を、どのような人であっても等しく真実に生きることのできる道を明らかにしてくださった教えであると仰いだのです。