今という時間 - [250]
「死ねば天国?」
木場 明志(きば あけし)
お盆の時節には、亡くなった人を偲ぶ。それについて、このごろ気になることがある。身内や知人を亡くした人の多くが、亡くなった人は天国に行ったと口にすることである。いつからそんなにキリスト教信者が増えたのかと、訝しく思うほどである。
仏教徒が多い日本では、極楽を口にしそうなものなのに、何故なのだろう。極楽は風呂に入ってご機嫌な時だけなのか。大学生に尋ねると、天国は生前の姿のままに自由で楽しい楽園。極楽は仏像っぽい容貌になって、蓮の花の上に行儀よく座っている硬苦しいイメージという。仏教離れの現われの一つかと思う。
仏教教団や僧侶たちは、世間の仏教離れにも拘らず、「真実の仏教」の宣布にいとまがないように見える。残念ながら、そこに説かれる「真実の仏教」は〈概念〉であって〈現実〉でない。したがって、現実的かつ魅力的なイメージを人々に提供していないのであろう。概念としての仏教と、現実を求める世間的信仰とでは、大きく隔たるのは当然である。関係筋には、どこまでも現実に即しながら、真実とする概念へといざなうあり方が求められよう。
さて、天国が行きっぱなしなのに対し、極楽からは自在に人々の救済に還ることができるという。蓮に鎮座して固まるのでないとすれば、極楽もなかなかいいものでは・・・と私などは思う。多くの人にとって、身内や知人の死が宗教を考える現実的な機会であることは今も変わりない。死すべき身としての自分を考えたい今である。