今という時間 - [126]
「弱音ノススメ」
谷口 奈青理(たにぐち なおり)
「ごめんなさい」が言えない子どもが、どの幼稚園にもひとりぐらいはいる。悪いということは本人もよくわかっているのに、絶対にあやまらない。
あやまったら許してやろうとおとなは思っている。それを信じている子どもは、自分のしたことについて「ごめんなさい」が言える。しかし、悪い子は見捨てられると感じている子どもは、悪かったと思えば思うほど、こわくて「ごめんなさい」が言えないのである。かれらはそのかたくなさの裏側に、存在そのものに関わる大きな不安をかかえている。「ごめんなさい」は安心してあやまれる関係でなければ言えないのだ。
「ごめんなさい」が言えないのは子どもだけではないかもしれない。強く正しく豊かでなければ存在を受け入れてもらえないという不安を感じているおとなも、決して少なくないだろう。弱さを認めるのは、こわいことなのである。今「癒し」が声高に求められているのも、存在そのものについての不安が強く感じられているからではないだろうか。
しかし、このような不安をモノだけで癒すことはむずかしいだろう。求められているのは、弱いところを見せても見すてられない関係である。これは不安に耐えて弱音をはいてみなければ見いだすことができないのではないだろうか。
弱さが許されると信じることができる関係を、子どもともおとなともつくりあげていくことが求められているように思われる。