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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [268]

未曾有

「未曾有」
木村 宣彰(学長・教授 仏教学)

 『徒然草』に「比丘(びく)を堀に蹴入れさする、未曾有(みぞう)の悪行なり」(百六段)という狼藉をとがめる僧の言葉がある。比丘(僧)を蹴落すという悪事は当時では前代未聞のことであったろう。犬が人を咬んでもニュースにならないが、人が犬を咬めば事件である。一国の総理が国語を正しく読んでも誰も驚かないが、度々の誤読はニュースになる。
 先頃、若者の会話を聞いて驚いた。漢字が読めない友だちに総理の名を挙げて「○○さんみたい」と言っているではないか。このようなことは未曾有であろう。
 実は、この「未曾有(みぞう)」という語は、古代インドの言語である梵語の「アドゥブタadbhuta」の訳語である。仏教が中国に伝来した時、〈希有なること〉を意味する梵語の「アドゥブタ」を三蔵法師は「未曾有」(「未だ曾て有らず」)と翻訳したのである。仏教における〈非常に珍しいこと〉、〈不思議なこと〉を意味するのが「未曾有」である。
 日本では仏教語は呉音で発音する。例えば、有名、有限などは漢音で「ユウ」と発音するが、仏教語の有為、有無などは呉音で「ウ」と発音するのである。従って、仏教語である「未曾有」は「ミゾウ」と呉音で読むのが正しい。ところが、漢字に疎い人は誤って「ミゾウユウ」と読むのであろう。
 仏教経典は「未曾有」を仏教の理想である「涅槃」の同義語として用いている。また、仏典では、未曾有を「世尊の希有の功徳を讃嘆するなり」と説明し、偉大な大乗の教えをたたえて「未曾有殊勝之法」などと説いている。要するに「未曾有」とは、世間一般の見方とは違う仏教の真理や、仏の非常に優れた功徳を表わす語である。
 世俗を越えた仏教の究極を表わす語であった「未曾有」が、今日では「未曾有の金融危機」というように仏教を離れて「空前絶後」「前代未聞」の出来事を表わす言葉となった。その挙げ句に総理が「未曾有」を読み間違えたのである。これは空前の事であるが、どうか絶後であるようにと願うばかりである。宰相には、ぜひとも正しい国語で所信を表明し、その実現に邁進していただきたいものである。

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