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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [248]

三界

「三界」
宮下 晴輝(みやした せいき)(仏教学 教授)

 「女三界(さんがい)に家なし」という言葉がある。若い人はもう使わないかもしれない。社会環境が変わったためだろうが、由来までも見えなくなった。しばらく本(もと)を尋ねてみよう。
昔、蘇陀夷(そだい)という子がいた。七才のとき、「おまえの家はどこにあるのか」と、仏陀がおたずねになった。蘇陀夷は「三界に家なし」と即座に答えた。仏陀はこの答えに喜び、まだその年齢に達していないのに受戒させて僧伽(さんが)に加えられた。
 三界とは、欲界(よっかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の三つをいう。欲望につながれて苦しみ迷うものを欲界の衆生といい、美しい形にとらわれているものを色界の衆生といい、美しさへのとらわれは超えているが、なお迷っているものを無色界の衆生という。
 この三界の中に迷う衆生を、地獄・餓鬼・畜生・人・天にわけて、地獄から人までと天の一部が欲界の衆生であり、色・無色界の衆生はみな天といわれる。人に生まれたという苦しみが、それだけにとどまらずさらに深く重く地獄や餓鬼や畜生の苦しみにまで及ぶものであること、また神々にまでなろうと望むほど人の欲望の果てしなきことを物語るのである。仏陀は、衆生の苦しみ迷いを超えた世界を説いた。その苦しみを超えることを、三界を超え出るという。仏陀の世界である浄土は「三界の道を勝過(しょうか)す」とも説かれる。
 仏陀が、幼少の蘇陀夷に声をかけられたのは、おまえはどこで幸せに暮らしているのかと、その子の安否をおたずねになったに違いない。ところが年端もいかない子から、「三界に家なし」、三界のどこにも本当に安らぐことのできる場所はないと、まことに本格的な答が返ってきたのである。仏陀がそれをよしとした喜びようは、まだ二十歳になる前に具足戒(ぐそくかい)を受けた比丘(びく)としてお認めになったことからも十分に伺える。老いも若きも、まして男であれ女であれ、みな本当に安らぐことのできる場所は、三界を超えたところにこそ求めよ、ということである。そうであれば、「女三界に家なし」とは、三界の中に家を見つけたものが言ったか。童にも及ばない。

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