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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [242]

餓鬼

「餓鬼」
中川 皓三郎(なかがわ こうざぶろう)(真宗学 教授)

 「食べ物を餓鬼のようにむさぼり食う」とか、子どもをののしって、「この餓鬼め」と使われる、この「餓鬼」という言葉は、『仏教辞典』によると「生前に嫉妬深かったり物惜しみやむさぼる行為をした人の赴(おもむ)く所である。餓鬼の悲惨な状況は種々に描写されているが、飲食物を得られない飢餓状況にあることは共通している」とある。だから、この言葉は、私たち日本人には、ある種の恐ろしさを持って受け止められてきたと言っていいだろう。
 確かに「飽食の時代」という言葉が象徴するように、近年日本の国は、表面的には「飢餓」の恐れから解放されたかに見える。しかし、歴史をひもとけば、どれほど飢餓に苦しめられてきたかが分かるであろう。ひとたび飢饉が起こると、「餓鬼草紙」に描かれるような凄まじいすがたをさらしながら、人は、生きることになるのである。だから、何としても、食べることに困らない生活を実現しようと頑張ってきたのである。
 ところが、日本の豊かさがマスコミで取り上げられていたころ、日本に住む、イタリア出身の修道女の言葉が、ある新聞のコラムに紹介されていた。それは、「日本は豊かな国です。でも、人々の心が必ずしも満たされずに悩んでいることは、一人ひとりに会うとすぐ分かってしまうのです」というものだった。
 実は、このことを教えるのが、「餓鬼」という言葉なのである。何故なら、食べ物をむさぼり食う「餓鬼」のすがたは、食べても食べても満たされることのないすがたでもある。そのことが、「飢餓状況」にあるということだ。この「餓鬼」という言葉から教えられることは、私たち人間には、どれほど物質的に豊かになっても、満たされることのない欲求があるということだ。そして、その欲求が満たされないかぎり、心が満ち足りるということはないのである。
 欲望を満たすことが生きる意味ではない。お釈迦様のことを「満足大悲の人」(中国・善導大師)とよぶのだが、それは、お釈迦様が、生きることに満ち足りた人であったからである。そこに、私たちの生き方の指針があるのではないだろうか。

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