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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [167]

無我

「無我」
小川 一乗(おがわ いちじょう)(教授・仏教学)

 仏教の教えの三つの旗印(三法印)の一つである「諸法(全ての存在)は無我である」と、無我が説かれているように、この言葉は仏教において非常に重要な用語である。それではこの三法印の中に説かれている無我とは、どういう意味であろうか。
 私たちの日常用語で無我といえば、無我夢中とか、無我の境地などという言い方で用いられているのが普通である。無我夢中といえば、例えば、我を忘れて夢中になって勝負事に没頭する様子などを表している。無我の境地といえば、私心なく執着を離れた無心な心の状態を表している。このように、無我という言葉は、忘我とか無心という意味で使われているのが普通である。しかし、これらは仏教で説かれる無我という教えの本来の意味ではない。確かに仏教は執着こそが苦悩の原因であるとして、それを離れることを説く教えである。しかしその場合には、我執(自身に対する執着)・我所執(所有欲)の否定という全く別の用語が用いられる。どちらにも「我」という語があるため混同しやすいが、そのサンスクリット原語は全く別である。従って、無我という言葉によって、執着の否定を意味する忘我とか無心が説かれているわけではない。
 それでは、仏教で説く無我とはどういう意味であろうか。インドの宗教では、自らの善悪の業(行為)の報いを受けて生まれ変わり死に変わりを繰り返すという業報輪廻転生が説かれる。その場合、過去世から現在世へ、現在世から未来世への転生を可能にするためには、身体が死滅しても、消滅することなく存続する霊的実在が必要であり、それがアートマンと名付けられ、私たち一人一人と不可分に存在する常一主宰の実在とされる。そのアートマンが漢訳で「我」と翻訳されたのである。
 仏教の出発点は、そのアートマンの実在を縁起の道理(本誌162号参照)によって否定し、輪廻転生の世界から私たちを解放する解脱の道を明らかにした。従って、無我とはそのような霊的実在としてのアートマンの存在を否定する仏教の根本思想を示している重要な用語である。

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