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生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [147]

信心

「信心」
小野 蓮明(おの れんみょう)(教授・真宗学)

 “信心は徳の余り”という諺がある。それは、生活のゆとりがあってこそ、信仰心も起こるものである、という意味である。現今の厳しい不況下では、信仰心を起こすひまもない、ということか。
 経済情況が悪化し生活苦が深刻になると、人は望みを宗教に託そうとする。超越したものに対する信頼の心情を、一般に信仰という。
 しかし「信は道の元、功徳の母なり」(『華厳経』)とか、「仏法の大海には、信をもって能入(のうにゅう)となす」(『大智度論』)といわれるときの信の対象は、仏によって説かれた教法である。生けるもののすべてを、かならず仏の国に生らしめたいと喚びかけ、もし生まれなければ仏とはなるまい、と誓う仏の教説である。
 神や仏の力を信じて、その加護を祈ることを信仰というが、しかし浄土真宗では、「信心というは、すなわち本願力回向の信心なり」(『教行心証』 信巻」)といわれるように、阿弥陀仏から与えられた信心である。真宗では、信心を「まことのこころ」とよみ、仏の誓願に喚びさまされた真実の目覚めをいう。仏の本願を信ずるということは、仏の願心に喚びさまされた、大いなる目覚めなのである。
 仏の本願は大悲の智慧であるから、本願に開かれた信心もまた、智慧である。仏の智慧に開かれた信心は、おのずから智慧のはたらきをもつのである。中国浄土教の善導は、信心の自覚内容として二種を説き、一つには自身は罪深い凡夫であって、救いの縁なき身であること、二つには阿弥陀仏は、その身をかならず救ってくれること、と信心の内容を明らかにされた。親鸞は、第一の深信は、自身の信知であり、第二のそれは、仏の本願のはたらきに乗託する深信であると、了解された。
 真実の信心は、仏の本願によびさまされた目覚めであるから、ただ単に神仏を崇(あが)めて、その威徳に頼ろうとする信仰とは、本質的に違う。信心は、自己自身と仏への明確な信知を自覚内容とする、深い目覚めであり、仏の智慧を生きる自覚なのである。

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