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きょうのことば

きょうのことば - [2020年05月]

教育の理想的な目的は、自制力の創造にある。

「教育の理想的な目的は、自制力の創造にある。」
ジョン・デューイ『経験と教育』 講談社学術文庫 104頁

  理想的な教育とは、どのようなものでしょうか。社会や時代の移ろいによって、求められる教育の理想は絶えず変化しており、現在の学校教育は大きな転換期を迎えているともいわれます。とはいえ、教育には対極的なふたつの考え方があり、両者の間で理想の教育が模索されてきたともいえます。一方の教育の考え方は、進歩主義的なもので、子どもの生まれ持った素質を尊重し、それをベースにおいて内部からの自然の発達を促すことを教育の理想とします。それに対して、もう一方の教育の考え方は、伝統的教育に多くみられるもので、子どもが備えている性向を尊重するどころか、むしろ克服すべき対象とみなします。教育の役割は、教師などの外部の大人が、それらを、良しとされる習慣や正しいとされる知識に置き替えることだと考えるのです。前者の教育観では、子どもを性善説的に捉え、後者は性悪説的に捉えていると整理してもあながち的外れではないでしょう。

 プラグマティズムを代表するアメリカの哲学者、教育思想家のジョン・デューイ(1859—1952)は、ふたつの教育思想がもつそれぞれの利点や欠点を明晰に理解した上で、教育の理想的なあり方を学校教育の現場で模索し、練り上げました。デューイのいうように、伝統的教育では、教育は過去につくり出された知識や技能を新しい世代に伝達するプロセスであり、想定されている未来は過去とさほど変わりません。教えられる内容は、過去に完成された所産となります。したがって、「真理」や「正解」をあらかじめ携えている教師が権威をもって、未熟な学習者に上から教育を詰め込むという構図が浮かび上がります。一方の進歩主義的な教育実践からすれば、上からの詰め込み教育は個性の表現や育成を阻害することにつながる非民主的なものです。たとえ教え込まれた知識や技能が優れたものであっても、上からの指図に唯々(いい)諾々(だくだく)と従うだけの機械人間をつくり出すような「隠れたカリキュラム」がここには作動しているというわけです。

 進歩主義教育は、学習者の主体性や自由を尊重し「経験を通じての学習」を重視します。デューイ自身、進歩主義教育のこうした側面を高く評価しますが、そこには危険性がともなうことにも注意を払っています。教師による外部からの統制を拒絶し、自由放任主義で自主性にゆだねるならば、学習者は、一朝一夕にはいかない学びの成果を得る前に、根気が続かず、その場しのぎの安楽さに飛びつきがちになるからです。経験に根ざした教育の中心的課題は、状況の中で継続的に起こるさまざまな経験から、実り豊かに創造的に生きるような経験をいかに選択するかにかかっています。デューイによれば、衝動や願望を知性によって自ら抑制し、経験を再構成しない限り、知的成長はありえません。教育者に課せられる仕事は、こうした局面をうまく整え、サポートすることにあります。

 標題のとおり、デューイの見出した教育の理想的な目的とは、自分自身をコントロールし、衝動に即応するような行動はとらず、思考を介して「欲望の延期」に耐えられる個人を育てることでした。好きなことを持続させ、嫌いなことにも耐え忍びながら学んだ末の達成感や充足感は、ひとを知的に成長させ、新たな世界の発見に至らせるはずです。教育educationのもつ語源のひとつが示すように、理想的な教育は、経験の中で与えられるものとしての世界それ自体へと学習者を「外にex」「導くことeducere」ができるからです。

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