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きょうのことば

きょうのことば - [2018年11月]

前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪(とぶら)え

「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪(とぶら)え」
親鸞『教行信証』化身土巻(『真宗聖典』401頁)

  標記のことばは、釈尊の仏教を浄土真宗と確かめた親鸞(1173-1262)が、主著である『教行信証』の締め括りに記したことばです。このことば自体は、親鸞が大切な先達として尊敬していた仏教者である中国の道綽(562-645)が著した『安楽集』からの引用です。  

  親鸞は、『教行信証』を結ぶに当たって自らがなぜこの書を記したのか、その理由を記していますが、そこには生涯を貫いて決定的な意義を持つ師法然との出遇いが、具体的に描かれています。この出遇いにおいて親鸞は、「雑(ぞう)行(ぎょう)を棄てて本願に帰す」と述べ、迷いの人生を超えて、真に人間として生きる確かな道を阿弥陀仏の本願に見出すことが出来たのだと言います。そしてこの出遇いを通して親鸞は、釈尊以来の仏教の歴史が、自分に先立って、自己自身のいのちの意味に出会ってきた人たちの、仏教との出遇いの歴史であったことに気付いたのです。

  したがって標記のことばは、たんに先輩と後輩をお互いに大事にしましょうというだけの意味ではありません。「無辺の生(しょう)死海(じかい)を尽さん」とこの後に記されるとおり、すべての苦しみと迷いの中にいる人を、ことごとく救いたいという仏の願いのなかに自分自身のいのちがあり、すべての人がその願いによって生かされていることに気付いたという意味を持つことばなのです。私親鸞が法然との出遇いにおいて迷いのいのちを超える道を発見したように、この後に生まれてくる人もそうであって欲しい。こういう大乗仏教の根本の願いを表明するのがこのことばなのです。

  私たちは、いつの間にか生と死を切り離し、生きていることを当たり前にして、死ぬことをあってはならないこととして遠ざけて生活するようになりました。いかに充実した生を謳歌するかに人生の価値を見、自分の思い通りに、苦しまず、迷惑をかけずに死んでいきたいと、生を貪る延長上に死を見るようになりました。その背景には、現代の成果主義に基づく利便性や生産性、勝ち抜くことばかりを是とするような社会のあり方があるのではないでしょうか。かつ自分さえよければというような非寛容な価値観によって他を排除し、広域に同時に人と人とが繋がることができるネット社会のただ中にありながら、却って孤立を深め、人間が本来持っていた互いに共感する能力を放棄して、他に対して非寛容な社会を作り出しているのではないでしょうか。

  私たちは、誰ひとり自分の思い通りに生まれてきた人はいません。また誰ひとり自分の思い通りに死んでいく人もいないのです。そのようないのちの意味を、自らと同じようにそれを問い続けてきた人びとの歴史の中に見出した親鸞は、これからもその歩みが決して休止することがないようにとの願いから、このことばを主著である『教行信証』の終わりに記されたのです。

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