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きょうのことば

きょうのことば - [2015年11月]

無明長夜(むみょうじょうや)の燈炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな

「無明長夜(むみょうじょうや)の燈炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな」
親鸞「正像末和讃」(『真宗聖典』503頁)

 標題のことばは、親鸞の最晩年の著作「正像末和讃(しょうぞうまつわさん)」の一節です。
 この「正像末和讃」が書かれた年齢は、83歳から86歳頃にかけてと推測されています。この頃親鸞は「目も見えなくなりました。まったくなにごとも忘れ果ててしまい、他人に何かを教えるような身ではなくなりました」と述べています。それでもなお彼は晩年に次から次へ著作や手紙を書き続けていきました。親鸞をそこまで促したものは何だったのでしょうか。

 親鸞の晩年は13世紀中頃にあたります。この時代多くの人々が大地震や極端な冷夏など自然災害のただ中に生きていました。そのことからもたらされる飢饉や伝染病などによって、決して生活することが容易ではなかった時代に、人々は筆舌に尽くしがたい悲惨な現実に直面したにちがいありません。

 標題のことばは、そのような中で刻みつけられたのです。意訳すれば、次のようになります。
 いつ明けるか分からないほどの暗く長い夜の中であっても、私を照らす大きな灯(ともしび)がある。
 そうであるから、智慧がなく、愚かさをさけることのできない身であっても、その自分をかなしむことはない。

 親鸞が表わす「無明長夜」とは、大災害から受ける苦痛のみならず、その中で生きる人々が更にどのような現実を作り出していくかということを踏まえての表現といえます。「無明」とは、仏教において人間の苦しみや迷いを生み出す最も根本的な原因です。自己の存在にとらわれ、苦しみを超える智慧を全くもたない人間の心を指すことばです。苦しみや怒りは、更なる苦しみと怒りを生みだし続けていくという私たちの現実の姿、つまり出口の見えない暗黒の闇の中を生きあぐねる私たち人間の実感を「無明長夜」という言葉は表わしています。

 私たち人間は、愚かさを避けることのできない存在です。愚かさを覆い隠し切れず、自らの愚かさを自覚するからこそ、人は自らの人生に大きな灯(ともしび)となる存在が、とてつもなく大切であることを思い知るのでしょう。そのような灯が確かにあり、また出遇(あ)うことができたからこそ、親鸞は、その言葉を自他の灯となることを願い、力尽きるまで書き続けたのです。仏の智慧に照らされている私たちは、目の前にどれほど過酷な現実があっても、また絶望的な状況を生きるしかなくても、生きる意義と自身の尊さを失わずに確かに生きていけるのだと、親鸞は標題のことばを通して私たちに伝えているのです。

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