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きょうのことば

きょうのことば - [2015年08月]

ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。

「ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。」
石原吉郎(『石原吉郎全集』II 花神社 11頁)

 70年前の1945年8月15日、石原吉郎(いしはら よしろう)(1915−1977年)は満州のハルピンにいました。その後シベリアに8年間抑留され、1953年、38歳のとき、ようやく帰国を果たします。1977年に62歳で亡くなるまで、強制収容所体験と向き合い続けた詩人でした。

 強制収容所の日常はすさまじく異常であるのに、囚人はその異常な事態をついには退屈と感じるようになると、石原は言います。人は周囲に同じ反応をして、同じ発想で行動しはじめます。〈平均化〉され、自分の名前が徐々に風化し、いつでも番号に置きかえうる状態になってしまう。もはや「単独な存在であることを否応なく断念」させられるのです。しかし同時に、この〈平均化〉は、囚人自身が望んで招いた状態でもありました。強制収容所で生きのびるには、集団のなかへ自分を埋没させなければならなかったのです。

 このような状況下で石原が知ったのは、死に際して最後に人間に残されるのは、私が〈まぎれもなくここに存在した〉ことを他者に確認させたいという希求である、ということでした。誰かに自らの存在を確認させる手段がもはや名前以外に何も残されていなければ、人は自らの名前にすべてを賭け、名前を残そうとした。人間にはどこまでも根強い承認要求があり、それが同時に人間の存在を確かめる根拠でもあると言えましょう。一方で、何もかもが奪われ名前しか残っていないという事実ほど恐ろしいことはないとも石原は語っています。

 戦争における大量殺戮(ジェノサイド)による死者の数は、我々を圧倒します。しかし、数量の多さとして恐怖を理解するなら、即座に大切な視点が欠落することに石原は注目しています。「大量殺戮(ジェノサイド)のもっとも大きな罪は、そのなかの一人の重みを抹殺したことにある。そしてその罪は、ジェノサイドを告発する側も、まったく同じ次元で犯しているのである。戦争のもっとも大きな罪は、一人の運命にたいする罪である」と言うのです。石原が徹底してこだわったのは「一人の死を置き去りにしないこと」でした。

 国家や民族以前に、一人の人間として次のように語らなければなりません。戦争をしてきた〈人間〉とはいかなるものか。いかに歩めば、戦争をしない〈人間〉としていられるのか。いかなる姿勢でどこに立つか。戦後70年、我々はいまなお問われ続けています。

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