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きょうのことば

きょうのことば - [2013年11月]

弥陀観音大勢至 大願のふねに乗じてぞ 生死のうみにうかみつつ 有情をよぼうてのせたまう

「弥陀観音大勢至 大願のふねに乗じてぞ 生死のうみにうかみつつ 有情をよぼうてのせたまう」
親鸞『正像末和讃』(『真宗聖典』505頁)

 この夏・秋も、私たちは大きな自然災害に何度も遭遇しました。自然の猛威を前にした時、私たちは人間の力の小ささや、想定のもろさ、生命の得難さ、保ち難さといった厳しい事実を思い知らされます。このことは、二年半前の東日本大震災でも、私たちが深く心に刻んだことでした。

 私たちは、自分の想定内で何かを達成できたと思った時、しばしば「私ががんばったからできたのだ。私の努力のおかげだ。」と考えてしまいます。自分の力でできる限りの努力をすることはもちろん大切ですが、そのうちに、つい私たちはあらゆることを自分で何とかできると思ってしまいがちです。しかしそうした思いは、上に述べたような、自分の力ではどうにもならない出来事に遭遇した時、微塵に打ち砕かれてしまいます。
 そしてその時、私たちは、普段は忘れかけていた、自分以外の多くの存在によって自分が支えられ様々なことを教えられ続けていたという事実にも、改めて気づくのではないでしょうか。

 冒頭の言葉は親鸞の和讃の中の一首です。ここに記される「生死のうみ」とは、私の思い通りにならない現実を荒れくるう海にたとえた言葉、「有情」とはそうした現実の中で悩み苦しむ私たちを指す言葉です。一方、「弥陀」(阿弥陀如来)とは、私たち一人一人の生命を含めてあらゆる存在がつながっている、私が思いはかることのできないいのちと、そのいのちからの、私の自分中心の思いを知らせてくれるはたらき(光)のことです。また「観音大勢至」(観音菩薩・勢至菩薩)とは、そのいのちと光のはたらきを、私に身近なところで伝え、ともに歩んでくれる存在のことです。ここでは、現実生活の中で、私たちにともに歩もうとよびかけてくるいのちと光のはたらきが、「大きな願いの船」として表現されています。

 親鸞が生きた時代にも、大きな災害が何度も起りました。そうした中で彼は、具体的な種々のつながりの中に、普段は忘れかけている、はかることのできないいのちと光のはたらきを実感し続けていきました。いのちと光に本当に出遇った時、たがいに自分中心の思いを捨てられない私たちが、同時に、たがいを本当に大切にしながら、ともに歩む生き方ができるようになる事実を見ていったのです。

 自らの力の限界を思い知らされることは非常に厳しい経験ですが、その中にこそ他者との本当の意味での大切な出遇いの契機があることに、今、思いをいたしたいと思います。

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