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きょうのことば

きょうのことば - [2013年04月]

すべて真の生とは出合いである。

「すべて真の生とは出合いである。」
マルティン・ブーバー『我と汝』(『我と汝・対話』岩波文庫 19頁)

 長かった冬が終わり、今年も暖かな春の季節が訪れました。入学生のみなさんには心から歓迎の意を表したいと思います。新しい場所で、新たな出合いをえて、新しいことに取り組むこの時季は、期待と不安が入り交じるような、淡くやわらかな高揚感を与えてくれます。

 わたしたちはさまざまな出合いを経験しながら日々を暮らしています。その出合いには、人との出合いだけではなく、ものや事柄、場所、想いというものとの出合いも含まれているでしょう。いずれの場合でも、「〈わたし〉が新しいだれか/なにかに出合う」という見方でとらえるのが一般的であるといえます。

 しかし、標記のことばを記したマルティン・ブーバー(1878-1965)は、〈わたし〉がまず存在して、それからその他の人やものがあり、それらに出合うという見方を根本から考え直しました。ブーバーは、〈わたし〉が独立してまず存在しているのではなく、つねに〈わたし-あなた〉という人間の対応関係がもっとも根源的なものであると述べます。

 わたしたちは日常的に、自分を起点として世界をとらえています。別の言い方をすれば、まず〈わたし〉があって、それからわたし以外の人やものがある、ということになるでしょう。しかしブーバーは、このような自己を中心におく世界観に疑問を投げかけました。ブーバーは〈わたし〉がスタート地点になる関係性を〈わたし-それ〉と呼び、〈わたし〉と〈それ)はどこまでいっても別のものであり、相互的な結びつきをもつことができないと指摘します。

 〈わたし〉とその他の人やものというとらえ方は、物質に極端にこだわったり、エゴイズム的にふるまったりすることにもつながる可能性があります。ドイツ語圏で活躍したユダヤ人哲学者であるブーバーのこのような指摘は、後のナチスドイツが招いた悲劇を予見させるものともいえます。

 その一方で、〈わたし〉と〈あなた〉は、出合い、呼びかけ合い、話し合うことで成立する関係です。〈わたし〉はまた同時にだれかから〈あなた)と呼びかけられる存在でもあります。この世の中に〈わたし〉だけで生きることができる人はおらず、必ずどこかで誰かと関係をもちながら生きています。同級生、先生、先輩、あるいはアルバイト先の人々などとの新しい出合いに満ちた新生活ですが、そのなかで〈わたし-あなた〉という視点をもつということは、「呼びかけ、呼びかけられる」関係をスタートさせることでもあるのです。

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