ここからサイトの主なメニューです

Home > 読むページ > きょうのことば > 大悲倦きことなくして常に我が身を照らしたまう。

きょうのことば

きょうのことば - [2013年01月]

大悲倦きことなくして常に我が身を照らしたまう。

「大悲倦きことなくして常に我が身を照らしたまう。」
源信『往生要集』(『真宗聖教全書』一 809頁)

 新しい年がはじまりました。新年を迎えて、今年こそ新しいことに取り組んでみようと心に決めた人、また昨年やり遂げられなかったことをぜひ完成させようと考えている人は少なくないと思います。もう既に目標を具体的に立てて実行している人もいるかもしれません。

 しかし、どんなに大切だと思って始めた事でも最初のうちは生き生きと感じられているのに、やがて時が過ぎ目新しさが失われていくと、私たちは退屈さを感じてしまうことがあります。更に困ったことには、その事柄の大切さまで色あせて見えてくることもあります。そして何故こんなことをしているのかと自問することさえ起こりかねません。

 標題のことばは、そのような私たちとは正反対のあり方を阿弥陀仏の大悲の内容として語っています。標題のことばを記した源信(942-1017)は、日本浄土教の基礎を確立した比叡山延暦寺の僧です。彼にとって、阿弥陀仏の大悲とは苦しみ迷いの中を生きる全てのものを慈しみ悲しむこころであり、それを信順することによって彼自身が迷い苦しみのあり方を越えていく道に立つことができたのです。
 源信は、標題のことばを含む一連の文章において以下のように述べます。

私は阿弥陀仏の必ず救い取るという心のうちに生きているのだけれども、煩悩が私の眼を蔽ってしまい、その阿弥陀仏の救い取ろうという心の光を見ることができないでいる。そうではあるけれども、阿弥陀仏の大悲は決して倦(う)むことなく常に、そのような私の身を照らしてくださっているのである。

 煩悩とは、私たちを苦しめ悩ます根本となる、貪りや怒り、自己に執われる心などの精神作用を言います。源信は、そのような煩悩に邪魔されて、苦しみを超えていくための拠り所となるべき阿弥陀仏のはたらきが見えなくなってしまうのだと言うのです。しかし、そのような煩悩の深い自分自身をこそ、決して倦むことなくいつでも照らしつづけている仏の大悲に気付くことができたという感動を源信は語っているのです。

 新しいことに取り組もうとする姿勢や行動はとても大事なことですが、どんなに大切なことでも、それを続けていくうちに倦み疲れはて投げ出してしまう可能性の中に私たちは生きています。源信は、そのような人間だからこそ、いつでも立ち返ることのできる拠り所を、そして人間として忘れてはならない立脚地を教えようとしているのではないでしょうか。

Home > 読むページ > きょうのことば > 大悲倦きことなくして常に我が身を照らしたまう。

PAGE TOPに戻る

ここからサイトの主なメニューです