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きょうのことば

きょうのことば - [2012年11月]

功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

「功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」
親鸞『高僧和讃』(『真宗聖典』490頁)

 この文は、親鸞が著わした和讃(わさん)の一節です。その全文は次のようなものです。

本願力(ほんがんりき)にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

 この文の意味は以下のようになります。私たちが、はかることができないいのちのはたらきと、そのいのちからの私の心の闇を照らす光のはたらきに出遇(であ)ったならば、私たちの人生がどのようなものであったとしても、それは決して「空(むな)しい」ものにはなりません。そこには、常に、はかることができないいのちと光のはたらきが豊かな海のように満ち、私たちの自分中心の濁(にご)った心がわき上がったとしても、それが自分と他者を冷たく分けへだてるものにはならないのです。

 親鸞は海を非常に大切にした人です。彼が出遇った海、それは、いのちを育み、恵みをもたらすと同時に、時に荒れ狂い、すべてを呑み込んでしまう存在でもありました。そうした海と、その豊かさとおそろしさを肌で感じつつ生きる人々に出遇った親鸞は、その中に人間が出遇うべきいのちの本当の意味での尊さを感じ取ったのです。
 私たちが普段の生活の中で想定する豊かさやいのちの尊さとは、自分にとって都合がよく快適な状況のもとでのものです。しかし、実際には私たちのいのちは、自分に都合がよいつながりだけによってあるのではありません。いのちのつながりとは、人間の都合のものさしをはるかに超えた、私たちがはかることができないものと言えるでしょう。

 昨年三月の大地震・津波の後、「想定外」という言葉が多く用いられました。私たちは、日常の中で、様々なことを想定し計画を立ててゆかなくてはなりません。しかし、今回の地震・津波によって、私たちは、そうした自分たちの想定・計画やものさし、さらにはそれらによって「私のもの」としてはかったつもりになっていたいのちが、非常にもろく弱いものであるということを、余りにも過酷な現実を通して知らされました。そして同時に、いのちのつながりというものは、私たちがそのすべてをはかってしまうことができないものだ、ということにも気づかされました。また、そうしたいのちからの、私たちの自己中心的な心のあり方を問い直す様々な促しがある、ということにも気づいたのではないでしょうか。

 私の普段のあり方そのものを問い直してくる、いのちの願いに本当に出遇った時にこそ、私のものさしでは決してはかれない豊かなつながりを尊ぶ生き方が開かれてくる、そのことを冒頭の言葉は伝えています。

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