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きょうのことば

きょうのことば - [2012年02月]

分別もまた空なり。

「分別もまた空なり。」
『維摩詰所説経(ゆいまきつしょせつきょう)』「問疾品」(『新国訳大蔵経』文殊経典部2 大蔵出版 80頁)

 「分別」という語は、現代の日常生活では「ものごとの道理をわきまえること」という意味で用いられます。例えば「分別盛り」という言葉は「世間の道理をよくわきまえて活躍する年ごろや、そういう人」という意味になり、褒め言葉として用いられます。

 しかし、仏教では「分別」を良い意味で用いることはありません。私たちが物事をわきまえようとしても、煩悩があるために、どうしても誤ったわきまえ方しか出来ないからです。煩悩とは、思い込みや決めつけと捉えても良いでしょう。そもそも、わきまえる(=分けて考える)こと自体が真実に反する態度だとも言えます。例えば、いつからいつまでが「朝」なのか、明確に線を引くことは出来ません。ですから、私たちの日常感覚とは逆に、仏教では「無分別」が真実の姿を示しているといいます。

 標記の言葉は、逆説的な表現で教えを伝えようとしている『維摩経』(『維摩詰所説経』)に出てくる言葉です。大乗仏教の真理であるとされる「空」について、維摩居士(こじ)と文殊菩薩とが問答を交わす中で、維摩居士の言葉として語られます。「三人寄れば文殊の知恵」という諺もあるように文殊菩薩は智慧を象徴する菩薩ですが、維摩居士は文殊菩薩以上に真実に通達した人物として描かれています。

文殊「(無分別である)空を分別することができるのでしょうか。(できないですよね。)」
維摩「分別だって空ですよ。」

 文殊菩薩は、「空という真実は分別できないものだ」という、仏教としてはごく当然の考え方を提示します。しかし、「空は分別できない」ということもまた「分別」の一つに過ぎません。維摩居士は、「分別も、無分別も、いずれも空なのだ」という、更に徹底した立場を提示して、文殊菩薩が「分別」「無分別」を固定化してしまっていると指摘します。

 私たちの日常生活では、何が正しいことなのかは自明のことのように思えます。それは固定観念となって、しばしば私たちの世界を狭いものにしてしまいます。私たちがより広い世界を獲得するには、そういった固定観念を打ち破り続けなくてはなりません。しかし、固定観念を打ち破った考え方も、容易に次の固定観念となってしまいます。どんな答も固定化の網から逃れられません。固定化を防ぐには、答ではなく、問を発し続けるしかありません。だからこそ、何をどのように問うていくかを学ぶ「学問」が重視されているのです。

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