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きょうのことば

きょうのことば - [2011年12月]

是非(ぜひ)しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利(みょうり)に人師(にんし)をこのむなり

「是非(ぜひ)しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利(みょうり)に人師(にんし)をこのむなり」
『正像末和讃』(『真宗聖典』511頁)

 標記の言葉は、『正像末和讃』の末尾にある和讃です。『正像末和讃』には、親鸞が自らの生きざまを見つめて、自分自身を傷(いた)み悲しんだ和讃が収められていますが、標記の言葉もそのような主旨のもとにうたわれた和讃の一つです。

何が是であり非であるのか分からず、何が邪であり正であるのかを本当に理解することができない私です。また、人を哀れみ悲しむ心も持ち合わせていない私ですが、それでも名利心にとらわれて、人の師となることを好んでいるのです。

 名利とは、名聞利養(みょうもんりよう)のことであり、世間の名声や利益のことを言います。ですから、「名利に人師をこのむ」とは、人の師と呼ばれる名声を得て喜んでいるということです。

 親鸞は関東で20年余り過ごす中で、人々に念仏の教えを伝え、たくさんの門弟が誕生しました。親鸞は法然から教えられ、自らを立ち上がらせてくれた念仏の教えを、今度は苦悩に沈む人々に伝えたいという思いをもって、人々に語り続けました。その結果として無数の念仏者が誕生したのです。親鸞は世間での名声を得るために、人々を教え導いたのではありません。それにも拘わらずこのような和讃をうたったのは、たくさんの門弟が生まれ、いつしか人々から師としてあおがれる存在となったとき、名利心にとらわれる自分自身のあり方が自覚されたからなのでしょう。親鸞はそのような自分自身の姿を見つめ、批判し、悲しんでいるのです。そして、人の上に立って指導するという立場ではなく、あらゆる人々と共に念仏して生きるという自分自身に立ち戻ろうとしているのです。

 たとえば、もし教育者であろうとする人が、「先生」としてあおがれて誇ってしまうようならば、それは名利心にとらわれていることになるのでしょう。それがここで言う「名利に人師をこのむ」というあり方なのです。それは、自分の欲望を満たすために「人師」という立場を利用していることになるのです。親鸞の生き方と、自分自身を批判する親鸞のこのような言葉を学ぶと、そもそも教育者とはどうあるべきなのか、どのような願いがあって教育者であろうとするのか、つねに確かめ続けていかなければならないということを考えさせられます。

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