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きょうのことば

きょうのことば - [2011年11月]

かの如来の本願力を観ずるに、凡愚遇(もうお)うて空しく過ぐる者なし。

「かの如来の本願力を観ずるに、凡愚遇(もうお)うて空しく過ぐる者なし。」
親鸞『入出二門偈頌文』(『真宗聖典』461頁)

 今年は、親鸞(1173-1262)の750回忌の年にあたります。750年の間、親鸞の言葉は伝えられつづけて来ました。それは、多くの人々が人間として大切なものを親鸞の教えに聞き取ってきたからでしょう。

 標記の言葉は、親鸞が書き記した漢詩の一部です。
 冒頭の「かの如来」とは、自ら起した願いを実現しなければ仏に決してなるまいと誓った阿弥陀如来のことを言います。また、「本願」(阿弥陀如来の願い)とは、生きとし生けるものがどんなに愚かであっても見捨てないという願いのことです。

阿弥陀如来の本願のはたらきに出遇うことができたならば、自分の力で迷いを超えることのできない愚かな者が、空しいまま終わることのない人生を歩むことができるのです。

 親鸞は、標記の文で、自分を含めた人間全体を「凡愚」と言い表します。「凡愚」とは、ものごとの道理を正しく知る智慧も持たない愚かな者という意味です。親鸞にとって、この言葉は単に自分を卑下する言葉だったのではありません。

 親鸞は、9歳から29歳の20年もの間、「凡愚」から脱却しようと徹底して厳しい修学に励みました。しかしその修学に打ち込むほど明らかになってきたのは、どうすることもできない自分自身が持つ愚かさ、つまり欲望や怒りの深さ、我にとらわれていくあり方でした。

 しかし、親鸞は、自分が「凡愚」であることに気付いたからこそ、その自分自身のために説き明かされ伝えられてきた教えと出遇えたことに感動するのです。「凡愚」からどうしても脱却できない自分を責めつづけ否定するのではなく、「凡愚」である自分自身を受けとめて、その事実を引き受けたのでした。そこから立ち上がることができたのは、誰の人生も決して空しいままに終わらせないはたらきを持つ「本願」の教えに出遇うことが出来たからだと親鸞は語るのです。

 今の自分を否定する思いは、時には向上心として自らを鼓舞する力となります。しかし、そのような力強さを得るためには、しっかりと踏ん張ることが出来る大地を自らの内に持たなくてはなりません。冷静に考えてみれば、そのような堅固な大地を持ち得る人は却って少ないのではないでしょうか。親鸞は、その大地を、阿弥陀如来の「本願」に見出したのです。

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