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我みずからに法あれば、すなわち情に所執あり。

きょうのことば

きょうのことば - [2011年08月]

もし聞くと云わざれば、すなわち我みずからに法あり。<br>我みずからに法あれば、すなわち情に所執あり。

「もし聞くと云わざれば、すなわち我みずからに法あり。
我みずからに法あれば、すなわち情に所執あり。」
『注維摩詰経』(『大正大蔵経』第38巻 328頁)

 『維摩詰(ゆいまきつ)経』を含めて、仏教の経典は「私はこのように聞きました」という言葉で始まるのを定型としています。これは多聞第一と称される阿難(あなん)という弟子の言葉とされています。標記の言葉は、『維摩詰経』の冒頭句を、翻訳者の鳩摩羅什(くまらじゅう)(350-409頃)自身が解説したものです。

「聞く」という謙虚な気持ちが無いのは、自分自身の「法」(考え方)があるということです。自分自身の「法」があるということは、「情」(こころ)にこだわりがあるということです。

 阿難は、釈尊の忠実な侍者でした。しかし、釈尊の言葉を常に鵜呑(うの)みにしたわけではありません。教団運営に意見したり、教説に疑問を呈したりという側面も仏典に見出すことができます。実際、釈尊の教説は、すぐには受け入れられないような厳しい事実をしばしば指摘するものでもありました。しかし、自分ではなかなか気付けないようなことだからこそ、他者から謙虚に「聞く」姿勢の重要性を阿難は認識していたのでした。

 このことを、私たちの身の回りで確認してみましょう。夏休みには、いつもとは違う人たちと言葉を交わす機会が多くなります。多くの人のさまざまな話を聞くことは、自分自身の世界を拡げるためにも重要なことです。しかし、すぐには納得できない意見が投げかけられることも少なくありません。そして、「そんなのは間違った考えだ」と反射的に決めつけてしまったりします。更には、感情的になって、その言葉を投げかけた人を「変な人だ」と人格の評価までしてしまうことさえあるでしょう。こうなったら、もう相手の言うことには耳を貸さなくなってしまいます。そして、気が付くと、せっかく異なった考えに触れることができる機会があるにもかかわらず、似たような考えの人ばかりに囲まれている自分を見出すことになってしまいがちです。

 私たちは、周囲からさまざまなことを学んでいます。しかしながら、多くの場合は、単に自分の都合の良い部分だけを切り取っているに過ぎません。
 その人の言葉に素直に耳を傾けられないのは、ひょっとすると、相手が間違っているからではなくて、自分の考え方にとらわれて偏狭になってしまっているためかも知れません。自分の考えとは異なった意見に出会った時にどのような態度を取れるか。もし、耳を傾けられないのだとしたら、そこで明らかにされるのは、私自身のこころのとらわれた姿なのです。

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我みずからに法あれば、すなわち情に所執あり。

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