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きょうのことば

きょうのことば - [2011年06月]

我、今、帰するところ無く、孤独にして同伴無し。

「我、今、帰するところ無く、孤独にして同伴無し。」
源信『往生要集』(『真宗聖教全書』一 大八木興文堂 738頁)

 源信僧都(げんしんそうず)(942-1017)は、平安中期の天台僧ですが、とくに浄土教思想への関心を強くもった人物として有名です。『往生要集』は、その源信の浄土教思想を代表する著作であり、書名の通り「浄らかな世界へ生まれたいと願う人々に、その要となる教えを集めたもの」を内容としています。全体で十章からなりますが、特に多くの人びとに強い影響を与えたのが、第一章「厭離穢土(えんりえど)」(おんりえどとも読む)と第二章「欣求浄土(ごんぐじょうど)」でしょう。これはそれぞれ、「穢れた世界を厭(いと)い離れること」と「浄らかな世界を欣(ねが)い求めること」を明らかにする章となっています。

 なかでも「厭離穢土」では、穢土の様相を「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」の六つの恐ろしい世界として描き出していきます。それによって人々に、穢れた世界を厭い離れることを勧めようとします。冒頭の言葉は、中でも最も厭うべき世界として説かれる「阿鼻(あび)地獄」に出てくるものです。「阿鼻」とは、「無間(むけん)」という意味ですが、絶え間なく苦しみを受けなければならないという、地獄でも最下底に位置する世界です。ここの住人は、他の地獄の住人があたかも天での生活を楽しんでいるかのようにさえ見えると言います。冒頭の言葉は、この「阿鼻地獄」に堕ちていくときに、罪人が泣き叫びながら詠む詩とされています。

私は今、もはや帰るべき場所もない。たった一人で、友も無く、地獄に堕ちていくのです。

 地獄とは、自らの欲望ばかりを優先させて生きてきた者が堕ちていく世界です。他者を傷つけても痛みを感じることが無い者が、終には堕ちていく世界です。人間は元来、多くのものと共に在り、支え合いながら生きています。しかし、このような当たり前のことを無視し、共に在ることを見失った者は、一人、孤独の世界に堕ちていかなければなりません。友も無く、永遠の孤独に満ちた世界で、長い長い地獄の苦しみを背負っていかなければならないのです。

 『往生要集』に説かれる地獄の凄惨な様子は、読む者を底知れない恐怖に陥れていきます。地獄を、自分とは別の世界として客観視できない気分になってしまいます。それは、地獄が、実は私たちの世界の穢れたあり様の行く末を映し出す鏡となっているからです。時には、自分自身の日頃の生き方を反省的に照らし出し、深い恐怖に覆われてしまうこともあります。

 『往生要集』は、実はそのような効果を狙った書物です。源信はそれによって、穢れた世界を離れ、浄らかな世界を求めるよう、多くの人々に説いてきたのです。

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