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きょうのことば

きょうのことば - [2010年12月]

汝はこれ凡夫なり。

「汝はこれ凡夫なり。」
『仏説観無量寿経』(『真宗聖典』95頁)

 『仏説観無量寿経』は、インドのマガダ国の王妃である韋提希(いだいけ)に対して、釈尊が阿弥陀仏の浄土の教えを説いた経典です。その中で釈尊は韋提希に次のように述べています。

汝はこれ凡夫なり。心想羸劣(しんそうるいれつ)にして未(いま)だ天眼(てんげん)を得ず、遠く観ることあたわず。諸仏如来は異の方便ましまして、汝をして見ることを得しめたまう。
(あなたはまさに凡夫である。心が劣り、智慧の眼が開かれていないから、はるか遠くを観ることはできない。ただ、諸仏如来にさまざまな手だてがあるからこそ、あなたも仏の世界を見ることができるのである。)

 韋提希は釈尊から「あなたは凡夫である」と言われています。凡夫とは一体どのような人のことを言うのでしょうか。

 凡夫とは、煩悩を身に具えていて、物事を正しく見る智慧の眼を持たない者のことです。例えば、欲望という煩悩に支配されている人は、どれだけ欲しい物を手に入れても満足しないという欲求不満の生活を生きることになります。また、怒りの煩悩に支配されている人は、他者と敵対し傷つけ合うという、心が休まることのない生活を生きることになります。このように煩悩によって苦しみながらも、そのことに気づかない者を凡夫というのです。
 また、凡夫のことを別名「異生(いしょう)」とも言います。煩悩によって、欲求不満の生活や、不安や恐れの状態を生み出したり、孤独の境遇に陥ったりするなど、様々に異なった苦しみの人生を生きる存在であるということを表した名です。

 大切なのは、そのような凡夫として生きている自分自身に目覚めるということではないでしょうか。だからこそ釈尊は上記のように「汝はこれ凡夫なり」と述べるのです。

 『観無量寿経』では、釈尊の導きによって智慧の眼が開かれていく韋提希の姿が描かれています。それは凡夫として生きている自分自身に目覚めたという意味での智慧です。やがて凡夫である韋提希は、未来の人々の苦悩を想像し、その人々が一体どのように救われていくのかを釈尊に尋ねます。このことは、自らを凡夫であると知った人は、更には人々の苦悩に共感し、人々と共に生きようとする存在へと生まれ変わっていくことを示唆しているかのようです。自分自身に対する確かな知見を持って初めて、私たちは他者との関わりを本当に開いていくことができるのかもしれません。

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