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きょうのことば

きょうのことば - [2010年11月]

世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ

「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」
『親鸞聖人御消息集(広本)』(『真宗聖典』569頁)

 世のなかから戦争や抑圧や差別がなくならないのはなぜでしょうか。私たちは、世界平和度指数(2009年)7位といわれる国・日本に住んでいます。しかしそれらに苦しむ人びとに思いを寄せない世のなかは平和といえるのでしょうか。

 親鸞が都へ去ったあと、関東ではさまざまな問題が起こりました。門弟たちから寄せられる問いに親鸞は手紙で真摯に応答しました。門弟たちはその手紙を集めて指針としました。それが『御消息集(ごしょうそくしゅう)』と呼ばれるものです。標記のことばは、鎌倉における念仏についての訴訟をめぐって、関東の念仏者を代表して事にあたった門弟(性信房)(しょうしんぼう)に宛てた手紙のなかに出てきます。親鸞は、「念仏者は社会とどのように関わればよいのか」について次のように答えています。

わが身の往生、一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏、こころにいれてもうして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべし
(仏の教えに出会って、みずからの身の救いが解決したと思う人は、仏のご恩に報いるためにお念仏を、心をこめて称え、「世の中が安らかで平穏であるように、仏法がひろまるように」と、お考えになるのがよいのです。)

 平和、平和と唱えても、人間の自我へのとらわれ(我執)があるならば、その平和を求める心が新しい抑圧を創り出すでしょう。自分たちの豊かな生活を保証する平和のために或る人々や民族を犠牲にしてもよいということになります。人間に底知れない我執の闇がある以上、かならずそうなります。そうならないためには、共に生きていることの深さを教えてくれる智慧が人々のなかに広まっていくことが不可欠だと思います。

 私たちは、世のなかが安らかで平穏であってほしいと思います。そして、それが世のなかの誰もが、共に生きることの深さを回復することができるためであることを忘れてはいけないと思います。そのことを教えてくれる智慧はさまざまな伝統のなかにあると思いますが、私たち仏教の伝統に立つものは、「仏法ひろまれ」と願っていきたいと思います。

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