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きょうのことば

きょうのことば - [2009年11月]

遇いがたくして今遇うことを得たり。 聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。

「遇いがたくして今遇うことを得たり。 聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。」
親鸞『教行信証』総序 (『真宗聖典』150頁)

 今月28日は親鸞のご命日です。親鸞を大切に想う人々にとって、親鸞に想いを寄せる大切な行事である報恩講が、東本願寺(真宗本廟 しんしゅうほんびょう)において、また大学において執(と)り行われます。特に今年は2004年から行われてきた修復を終えた御影堂で、久しぶりに報恩講が勤められます。

 さて、標記の言葉は、親鸞の主著である『教行信証』「総序」の中にある言葉です。

ここに愚禿釈(ぐとくしゃく)の親鸞、慶(よろこ)ばしいかな、西蕃(せいばん)・月支(がっし)の聖典、東夏(とうか)・日域(じちいき)の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。

 ここには、決定的な出遇いを果たし遂げることができたという、親鸞の喜びがつづられています。
 親鸞は29歳の時に法然に出遇い、念仏の教えを聞きます。そして、その教えを真(まこと)のよりどころとして生涯を生きぬきました。親鸞はその念仏の教えとの出遇いを、「西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈」(インド・西域の聖典、中国・日本の祖師がたの論釈)との出遇いと確かめて、三国伝来の深い背景に思いを致しているのです。

 そして、その教えとの出遇いについて、「本当に遇いがたいものであるのに、今、私は遇うことができました。本当に聞きがたいものであるのに、私はすでに聞くことができました」と述べています。
 親鸞は教えに出遇い、教えを聞くことができたことを、奇跡的な出来事であったと感激をもって受けとめているのです。また、「遇いがたくして」「聞きがたくして」と述べるように、その喜びのもとには、真の教えを求めて迷いを重ねてきた長い道のりが思われているのです。けれども、それまでの苦しく困難であった道のりも、出遇いを果たし遂げた親鸞にとっては、出遇いに導く縁であったと受け止められているのでしょう。親鸞にとっての出遇いとは、人生を変えるただ一度の出遇いであったのです。

 私たちは大学でたくさんの人々に出遇い、また学問する中でたくさんの教えを聞きます。その一つ一つの出遇いは、自分の人生にとって、どのような意味を持っているのでしょう。また、自分の人生にとってかけがえのない出遇いとは、一体どのようなものなのでしょうか。報恩講を迎えるこの季節、自らの人生における「出遇い」について思いを巡らしてみてはどうでしょうか。

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