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きょうのことば

きょうのことば - [1998年12月]

心と仏と及び衆生と、この三は差別なきなり。

「心と仏と及び衆生と、この三は差別なきなり。」
『華 厳 経(けごんきょう)』「夜摩天宮菩薩説偈品(やまてんぐうぼさつせつげほん)」『大正大蔵経』巻465頁

 近年、色々な場面で「こころの時代」とか「こころの教育」といった言葉を耳にします。「こころ」の大切さが叫ばれるのは、「こころ」ということがよく分からなくなったからなのでしょう。いったい「こころ」とはなんでしょうか。
 私たちは、自分という存在の拠り所を、考えるはたらきとしての「こころ」にあると思っています。「我思う、故に我あり」という有名な言葉がそれを物語っていると言えます。しかし、それが真実なら、私たちはどうして自分の誕生を自覚できないのでしょうか。芥川龍之介は、『河童』という小説の中で、河童の誕生を描写しています。そこでは、父親が胎児に生まれる意志をたずね、胎児はよく考えた末に「生まれたくない」と答えて存在そのものが消滅してしまいます。これは、一体何を言おうとしているのでしょうか。考えるはたらきとしての「こころ」が自分という存在の根拠であるという常識の矛盾をついているのではないのでしょうか。本当に、自分という存在の根拠は「こころ」のはたらきにあるのでしょうか。
 表題に掲げた一文は、如来のすぐれたはたらきをほめ讃えた「唯心偈(ゆいしんげ)」といわれるうたの一部です。衆生(人間=自分)とか仏といってもそれらは、知るはたらきによって知識として知られた内容に他ならない。「こころ」といっても本当は知るはたらきそのものではなくて、同様に知られた内容のことである。それ故、私たちの目の前にあるすべての物事は、全て知るはたらきによって知られた内容である、ということがこの一文の意味です。そして知られた内容に基づいて組み立てられたものが「科学」と言われ、私たちの日常的なものの考え方の拠り所となっているのです。しかしながらそのような知識では、自分自身の誕生さえも知ることができないというのが本当の所なのです。
 このように、表題の一文は、全ての物事である「心と仏と衆生」が知るはたらきによって知られたものであり、それらは真実ではないという点で区別がないと言うのです。従ってこの言葉は、大乗仏教の根本精神としての「一切が空である」という事実を別の言葉で表現している事にもなるのです。

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