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きょうのことば

きょうのことば - [1998年11月]

心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。

「心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。」
親 鸞 『教 行 信 証』化身土巻『真宗聖典』400頁

 自分が今どこにいるのか、どこに向かって歩いているのか、それが分からないと不安な気持ちになります。時間に余裕がある場合や、ぶらぶらすること自体が目的であるならばそれでもいいかもしれません。しかし、時間が限られているのに目的地が見つからなかったりすると、もうたいへんです。
 このことを人生に喩(たと)えてみるとどうでしょう。自分の現在地を本当に知っているでしょうか。また、人生の行き先が分かっているといえるでしょうか。分からないままに世間の風潮に流されてしまって、それでいて何となく落ち着かないなどということになっていないでしょうか。また、分かっているつもりでも、実は不確かなものを当てにして日常を過ごしてしまってはいないでしょうか。
 自分の現在地とか、人生の行き先などというと、そんなややこしいことは考えたくないという声が聞こえてきそうです。人生が無限に続き、何度でもやり直せるのならば、考えることを先送りすることもできるでしょう。しかし、私たちは必ず死んでいかねばなりません。一度しかない、誰とも代わることのできない自分をどう生ききるのか、それを明らかにするのは今しかないのではないでしょうか。
 表題に挙げた親鸞の言葉は、どこに立って、いかに生きるかを発見したよろこびをもって述べられた言葉です。阿弥陀仏の本願の世界が、「仏地」「法海」というように、広やかな大地と海で表されています。広い世界を知るということは、同時に自分がどれほど狭い世界で生きていたかに気づくことでもあります。その意味で、心を弘誓の仏地に樹てるとは、自分の狭い物の見方を離れて生きようとする決断が表されています。また、念を難思の法海に流すとは、本願の世界に身をひたし続けようという願いが込められています。
  日頃の自分の生き方を問い直すことは、なかなか難しいものです。広やかな世界に出遇ってみて初めて、自分が狭い物の見方にとらわれていたことを知ります。しかし、出遇った世界に生き続けていくことはもっと難しいものです。すぐに広やかな世界を忘れて狭い殻の中に閉じこもってしまうからです。それがどれほどお互いに傷つけ合っていくことになるかを見据え、広やかな世界に生きることを呼びかけているのが、「心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」という親鸞の言葉なのです。
 今月の28日は親鸞聖人の命日で、本学でも報恩講が勤められます。親鸞がなくなってから今年で736年。歳月は遠く隔たってはいても、親鸞からの呼びかけは今なお新たです。「あなたはどこに立っていかに生きているか」と。

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